ラブライブの入れ替わりネタ

 

 
改めて見るとそれぞれどのように他のキャラを演じてるか、他のキャラが自分を演じてるのを見てどう反応するか、うまく描き分けられてて面白い。
 
穂乃果→海未 そつなく演じている。芸能センスあるんだろうなと思わせる。ただ最初にトチってて、そこが穂乃果らしい。
 
ことり→絵里 ずっとなり切っている(ドヤ顔・腰に手を当て立ち)のがおかしい。あまり器用じゃない感じが、またいかにもことり。
 
海未→凛   恥ずかしがり屋なので最初嫌がっていたものの、ふっきって「にゃーー!」とシャウトした後は完全に入り込んでる。そうそう、うみちゃんこういうキャラよね。
 
凛→真姫   いかにも「凛が真姫のマネしてる」感じで、うまい。それを見た真姫が嫌がるのも楽しい。
 
真姫→希   凛にマネされてるのを嫌がってばかりなのを、みんなに押し切られて赤面しつつ渋々「…言った覚えないやん」。くうう…!
 
花陽→にこ  渾身の「にっこにっこにー」。完全になり切ってる。真打ち。圧巻。にこをマジでリスペクトしてるのが伝わってくる。にもかかわらずにこは不満。
 
にこ→ことり 花陽のなり切りを見て「にこはそんな感じじゃないよー」(一応ことりっぽく)。アイドル「にこ」大事のあまりのこの反応もとってもにこらしくて笑ってしまう。見てることりが地味に口元をふるわせてるのもウケる。
 
希→穂乃果  パン食ってる。穂乃果プルプルしつつ素になって「…私って、あんな?」
 
絵里→花陽  駆け込んできて「大変です!」これもなり切っててうまい。最後に素になって「変よ」も彼女以外に考えられない役回りで良し。
 
 
こうして見ると、本当によくできてる。感心してしまった。

アニメ『selector infected WIXOSS』感想

たった今最終回を見たところだが、まだ見ていない人も多かろうと思われるので、twitterタイムライン感想投下行為はためらわれる。
そこで、ここでひそかにつぶやいてみようかと。
以下、ネタバレあり感想です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
予想以上に全然終わってなかった!
何一つ区切りついた感、無し。
あきらっきーも出てこなかったし。
いえ、全然ガッカリなんかしていません。
秋が来るのがちょー楽しみ。
はやく9月にならないかなー。
でもその前にグラスリップ見なきゃ!
 
 
(追記)いおなの願いがるう子のルリグになることだって、他の人の感想見るまで気づいてなかった…いおなさん、超キモいド変態ですね。
一応区切りというか折り返しに来た的な意味はあるのかな。
 
(再追記)↑「超キモいド変態」よくなかった…

カナダの入管収容施設

昨日の記事でも触れた、関東弁護士会連合会・編『外国人の人権―外国人の直面する困難の解決を目指して―』(明石書店、2012)という本に収録されていた「カナダの入管収容施設見学記」と題されたコラム*1が、なかなか興味深かったので、まるごと引用したい。

 筆者は、2012年5月15日に、カナダ・オンタリオ州の州都トロント郊外にある Toronto Immigration Holding Centre を見学した。同施設では、入管および難民保護法(Immigration and Refugee Protection Act, IRPA)に基づいて身体拘束された外国人が、Canada Border Services Agency の管理の下に生活している。
 食事は、朝昼晩の3食の他、夕食後のスナック&ドリンクも用意される。また、被収容者のための図書室やチャペルもあり、祈り等の宗教活動を行うための集まりも許可されるとのことであった。運動エリアは、フェンスに囲まれてはいるが広いスペースが確保されており、バスケットボールのゴールなどが備え付けられていた。ここで、被収容者は1日2回、天候が許す限り、毎日運動できると説明を受けた。
 施設内のクリニックには、看護師が毎日詰めており、医師は週2回勤務するとのことであった。被収容者が医療サービスを求める場合は、収容スペースに備え付けられているリクエスト・フォームに記入して提出する。収容施設の担当者の説明によれば、被収容者が医師の診察を不必要に待たされることはなく、専門医の治療が必要な場合には、警備員を付けて外部の病院に運ぶシステムになっているとのこと。なお、2012年5月時点で、外部診療の費用は、Interim Federal Health Program(IFHP)を通じて公費負担がなされているとのことであった。
 見学者を非常に複雑な心境に誘ったのは、家族の収容エリア(母親と子どものための収容スペース。成人男性の被収容者は入ることができない)の存在であった。大小のおもちゃ類が散乱するプレイルームと、ダイニングスペース(ダイニング・テーブルのセットが4〜5個)は、被収容者が自由に行き来をできるようになっており、格子がはまっているとはいえ、明るい日差しが差し込む窓に可愛らしいカーテンが掛かっていた。子どもたちが元気に声を上げながら、部屋べやを駆け回っている。ただ、未成年者の収容の当否を考えるとき、問題は非常に複雑である。
 同施設の見学で非常に感銘を受けたのは、収容施設内にNGOのためのオフィスが用意されていたことであった。このオフィスには、Canadian Red Cross(カナダ赤十字)や The Toronto Refugee Affairs Council(TRAC)などのNGOスタッフが待機して被収容者のニーズに応えており、難民法律事務所(The Refugee Law Office)のスタッフも、週2日、このオフィスに詰めているとのことであった。このように、被収容者が、法律家を含む外部の専門家に助けを求めやすい環境が存在していることは、日本でも見倣うことができる点ではないだろうか。


いかが思われるだろうか。
こちらhttp://big-papa.hatenablog.com/で見られるような日本の同種施設と比べつつ読んでみるとなおいっそう興味深いことと思う。

*1:巻頭のシンポジウム委員会委員名簿、巻末の執筆者一覧によれば、同コラムを執筆したのは横浜弁護士会所属の駒井途知会弁護士である。

前記事の訂正、及び1974年最高裁決定についての(再)検討

1 この記事を書くにいたった経緯

前記事を書いたあと、たまたま図書館で借りてきていて手元にあった関東弁護士会連合会・編『外国人の人権―外国人の直面する困難の解決を目指して―』(明石書店*1をパラパラめくっていたところ、「入管身柄事件と憲法31条、33条、34条、37条」というタイトルのコラム*2が収録されていたので、「おっ」と思って読んでみた。
すると、前記事で触れた最高裁決定がこのコラムでも取り上げられており、しかもこちらでは最高裁決定の日付も明記されていた。それによれば、同決定は最決*31974.4.30集刑192-407(以下、本決定)であり、これは裁判所ウェブサイトにもアップされていることがわかった(http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=59750&hanreiKbn=02)。
 
前記事で依拠した野中・中村・高橋・高見『憲法1*4【第4版】』(有斐閣、以下『憲法1』)では日付等が明記されていなかった。そのため、本決定の詳細は不明だったが、ここで明らかになったので、本決定原文に即しつつ、前記事の改めるべきところは改めながら、本決定につき再度検討したい。なお、前記事にはこの旨、追記等を加えた。
 

2 本件の事実

ウェブサイトに記載された本決定の事件名を見ると公務執行妨害*5事件、すなわち刑事事件である。
決定本文から、おそらくは出入国管理令(現行入管法http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26SE319.html*6上の要急収容(同令43条1項)の執行に対し被告人が暴行等を加えた行為が罪に問われ、これに対し弁護人が要急収容の根拠である同令43条、39条の憲法33条等違反を主張*7したものと思われる。
 

3 本決定の内容

以下、前記事で依拠した『憲法1』の記述「最高裁決定は、要急収容は現行犯逮捕に準ずる場合であるから、そもそも令状は不要である、として上告を退けている」に相当する部分を引用する。

所論*8は、出入国管理令三九条、四三条所定の収容手続が司法官憲の令状なく身体の拘束を定めているものとして憲法三三条違反をいうが、原判決及びその維持する第一審判決の確定する事実によると、入国警備官の本件収容行為は、被収容者が同令二四条二号*9所定の強制退去事由に該当する外国人として現認されている状況のもとで、しかも、収容令書の発付をまつていては逃亡の虞があると信ずるに足りる相当の理由があるものとして、執行されたものであつて、同令所定の収容が憲法三三条にいう逮捕に当たるか否かは別として、現行犯逮捕又はこれに類するものとして、司法官憲の令状を要しないことが明らかであるから、結局、所論は、被告人の本件行為の違法性の判断に影響がない事項に関する違憲の主張に帰し、上告適法の理由に当たらない。

 

4 前記事の改めるべき部分、及び本決定の再検討

(1)

(ア) まず、「同令所定の収容が憲法三三条にいう逮捕に当たるか否かは別として」との部分に注目したい。
これによれば、本決定は、出入国管理令上の収容に憲法33条の保障が及ぶか否か(すなわち令状主義の適用があるか否か)について、明らかにしない立場をとっている。そのように留保しつつ、「仮に保障が及ぶとしても…」と続ける体裁の文章になっているのである。
前記事の脚注7で「判例も…入管法上の強制収容手続に憲法33条の保障が及ぶことを前提に考えているようである」と書いたのは誤っていたことになる。すでに前記事に追記済みであるが、この点を改める。
(イ) もっとも、現行入管法に基づき入国警備官等の行う強制収容は、逮捕等と同様に人身の自由を奪うものであり、重大な人権侵害たる性質を有するのであるから、憲法33条の保障を及ぼし令状主義の趣旨を貫徹するべきである、という私の考えは、当然ながら全く変わりはない。
 

(2)

(ア) つぎに、本決定は、もっぱら「入国警備官の本件収容行為」について「現行犯逮捕又はこれに類するものとして、司法官憲の令状を要しないことが明らか」と言っている(つまり本事件の収容の限りにおいて、現行犯逮捕又はこれに類するものに当たるとしている)のであって、前記事で私が書いたように出入国管理令上の要急収容(43条)という制度そのものを「現行犯逮捕に準ずる場合」としているのではない。
したがって、前記事3(3)の「次に、最高裁決定についてであるが」以下で述べた私の批判は、前提が誤ったものであるから、いったん撤回する(これも前記事に追記したとおりである。)*10
(イ) とはいえ、本決定の判断がこのようなものであるとしても、やはり無理があると考える。
つまり、「退去強制事由の有無は現行犯のように外観から容易に判断しうる性質のものではな」いので「要急収容は現行犯逮捕のように、嫌疑の明白性、誤認のおそれの希少性を備えているとはいえない」という、前記事で私が述べたような批判は、本決定に対するものとして、同様に妥当するのである。
「退去強制事由に該当する」というのは法的に判断される抽象的観念的な状態なのであって、「現行犯=逮捕者の目前でまさに犯罪の実行行為を行うこと」とは根本的に異なる。本件の場合で言えば、入管法24条2号(不法上陸)の強制退去事由該当という事実は、現行犯のように目の前で行われている事実とは全く異なることは明らかだろう。
すなわち、そもそも強制退去事由該当者と現行犯とは完全に異質であり、したがって、本件における「強制退去事由に該当する外国人として現認されている状況」と現行犯の状況とを同一視することはできず、「本件収容行為」が「現行犯逮捕又はこれに類するもの」とか「司法官憲の令状を要しないことが明らか」とかいったことは、言えるはずもないのである。
このように、結局、やはり本決定の判断は無理のあるものということができる。
 

5 結論

前記事において『憲法1』にある記述をもとに最高裁決定に対して述べたことはいったん撤回したものの、1974年最高裁決定が同意しがたいものである、という考えにはなんら変わりはない。

*1:同会の2012年度の定期大会におけるシンポジウムの報告書をまとめたもののようである。

*2:62-64ページ

*3:『外国人の人権』63ページは「最判」とするが、これは間違いである。

*4:ローマ数字の1

*5:刑法95条1項、「公務員が職務を執行するに当たり、これに対して暴行又は脅迫を加えた者」に罪が成立する。

*6:ポツダム命令としての出入国管理令は、1952年のサンフランシスコ条約発効後も法律としての効力を有するものとされた。難民条約加入に伴い、1982年、現在の名称となった。

*7:この主張が認められ、これらの規定が違憲ということになれば、その規定に基づいて行われる公務も当然に違法・無効となり、したがって公務執行妨害罪により保護されるべき適法な公務が存在せず、被告人は無罪となる。

*8:ここでは上告人(つまり、被告人)弁護士の主張のこと。

*9:「入国審査官から上陸の許可等を受けないで本邦に上陸した者」

*10:もっとも、『憲法1』の「この事件の最高裁決定は、要急収容は現行犯逮捕に準ずる場合であるから、そもそも令状は不要である、として上告を退けている」という記述は、私が前記事で書いたように出入国管理令43条の要急収容という制度が「現行犯逮捕に準ずる場合」である、と読むのが自然であって、そもそもこの記述自体が本決定の要約として誤ったものであると思う。

入管法上の強制収容制度の違憲性(追記あり)

追記:この記事を書いた後、ここで取り上げた最高裁決定が特定できました。読んでみたところ、この記事で前提としていた理解に誤りがあることが分かったので、この記事の一部を訂正しました。追記・訂正部分は、フォントを太字にしたり色を変えたりして目立つようにしてあります(脚注ではそれはできないので、脚注7と11については追記して訂正したことをここに書いておきます)。
再追記:次の記事で補足しました。
 

1.問題提起

日本国憲法第33条「何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。」
https://twitter.com/yanegon/status/267255478160076800

↑ちょっくら用があって日本国憲法を読んでたらこんな条文があったんだけど、入管によるオーバーステイの人の摘発・収容って、これに違反してないの? あいつら裁判所の令状もなにもなしにいきなり自宅とかに踏み込んで人さらいしてくよ。入管法憲法より上ってことないだろうしね。
https://twitter.com/yanegon/status/267255815394709504

それとも、日本で生活してること自体「現行犯」逮捕の要件をみたすとか、そういう理屈? さすがに、まさかだよな。
https://twitter.com/yanegon/status/267255880377065472

やねごんさんが以上のように言っておられたので、ちょっと手元にある憲法の教科書(野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法*1【第4版】』(有斐閣)、以下同書とする)で調べてみた。
同書の記述に基づきツイッターでも多少応答した*2が、足りなかったり不正確だったりするところもあり、こうしてブログで補足を試みるしだいである。
 

2.問題の前提

「入管による強制収容は憲法33条に違反しないか」を検討するに当たっては、まず、前提として、入管法上の手続にも憲法33条の保障が及ぶのか、を確認する必要がある。憲法31条および33〜38条は、刑事手続を念頭に置いた規定とされているので、刑事手続以外の行政手続においてもその保障が及ぶかが問題にされることになるのである。
この点、31条*3および35条1項*4・38条1項*5については、判例が行政手続へも保障が及ぶことを認めている*6
憲法33条についても、人身を拘束し移動の自由等を奪う点で刑事手続上の逮捕等と変わるところのない行政手続には、その保障が及ぶと考えてよいだろう。すると、入管の行う強制収容は入管法に基づく行政手続であり、逮捕等と同様に人身を拘束し移動の自由等を奪うものであるから、憲法33条の保障は及ぶと解することになる。
 
同書も、入管法http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26SE319.html 39条(強制収容)、43条(要急収容)のほか麻薬等取締法上の強制入院や伝染病予防法上の強制隔離等の例を挙げ、

これらは刑事手続ではないが、身体の拘束という重大な利益にかかわるから、本条が準用されるべきである。
(同書第八章第三節四、403ページ)

としている*7
 
追記:しかし判例(最決1974.4.30集刑192-407)は、「同令所定の収容が憲法三三条にいう逮捕に当たるか否かは別として」と述べており、憲法33条の保障が及ぶか否かを留保している。
 

3.問題点の検討

(1)同書の立場

では、入管法上の強制収容は、憲法33条に違反しないのだろうか。
入管法上の強制収容は、入管の主任審査官(入管法2条11号)が発付する収容令書(同39条2項)によって行われるとされている。憲法33条の定めるように「司法官憲」(裁判官のこと)の発する令状によって行われるとは規定していないので、問題になる。
 
この点につき、同書は以下のように述べる。

三三条の最も重要な趣旨は、身体拘束の正当性が原則として事前に、裁判所により判断されるということである。行政手続の場合は、裁判所が判断するに必ずしも適しない問題もあろう。しかし、少なくとも、裁判所と同視しうるような中立性を備えた判断機関が必要である。
(同書、403ページ)

もっともであると思う。
では、入管法の手続についてはどう考えるべきなのだろうか。
その点についても、同書は検討を加えており、

不法入国者の強制収容*8は、収容令書により行うことになっており、また、要急収容の場合は、事後に速やかに収容令書を請求することになっているが、「収容令書は、入国警備官の請求により、その所属官署の主任審査官が発付する」(三九条二項)とされており、判断機関が中立的といえるかどうか疑問である。
(同書、404ページ)

と、正しく問題点を指摘している。
 

(2)判例の立場

この点について、判例の立場は微妙である。
同書は上記記述に続き、カッコ書きで判例の考えを示している。

判例は、収容は「あくまでも一つの行政処分に過ぎないのであるから、刑事手続におけるほど厳格な憲法上の制約に服せしめることを必要とするものではないことにかんがみると、収容令書の発付者が要急収容を行った者と同一官署に属したとしても、それぞれ別個の職務権限を担当する者であるかぎり、憲法三三条はもちろん、同法三一条にも違反するものとはいえない」としている〔東京高判昭和四七年四月一五日判タ*9二七九号三五九頁〕。もっとも、この事件の最高裁決定は、要急収容は現行犯逮捕に準ずる場合であるから、そもそも令状は不要である、として上告を退けている)
(同書、404ページ)

 

(3)判例の検討

まず、東京高裁の判断については、強制収容が「あくまでも一つの行政処分に過ぎない」ことを理由に「刑事手続におけるほど厳格な憲法上の制約に服せしめることを必要とするものではない」とするのは、実質を無視した抽象論理というほかない。行政処分であろうと、人権侵害となる身柄拘束である点で逮捕・勾留と全く変わらない*10以上、憲法上の制約を緩めてよい理由になるはずもない。
 
追記:上にも書いたように、この記事を書いたあと最高裁決定が特定できた。直接確かめたところ、以下の記述は前提に誤りがある(入管法上の要求収容という「制度」を「現行犯逮捕に準ずる場合」としているのではなく、「当事件における要急収容」を「現行犯逮捕又はこれに類するもの」としている)ことが分かったので、青い字になっている部分は、いったん撤回する。このあと新しい記事をアップする予定である。
再追記:新しい記事http://d.hatena.ne.jp/quagma/20121112/p1アップしました。
 
次に、最高裁決定*11についてであるが、入管法上の要急収容(43条)を「現行犯逮捕に準ずる場合」と解するのはかなり無理がある解釈である*12
 
そもそも現行犯逮捕が令状主義(憲法33条)の例外とされるのは、逮捕者の目前で犯罪が行われることにより嫌疑が明白であって、裁判官による抑制がなくとも誤った逮捕のおそれが少ないからである。
一方、要急収容は被処分者が退去強制事由に明らかに該当することを要求している*13が、退去強制事由の有無は現行犯のように外観から容易に判断しうる性質のものではない。すなわち、要急収容は現行犯逮捕のように、嫌疑の明白性、誤認のおそれの希少性を備えているとはいえない。この点で「現行犯逮捕に準ずる場合」との判断には、根拠がない。
 
また、入管法が要急収容について事後の収容令書の請求・発付を要求している(同2項・3項)ことからすれば、要急収容はむしろ緊急逮捕刑事訴訟法210条)に似た制度であって、これに準ずるものと解するのが自然である。この点からも、要急収容を「現行犯逮捕に準ずる」とすることには、無理がある。
 
もし、最高裁決定が、要急収容が現行犯逮捕に準ずることを根拠に、入管法の規定にもかかわらず事後の収容令書を要しないとする趣旨ならば、それは解釈の限度を超えて裁判所が立法を行うに等しく、司法権による立法権への許されない侵害であり、権力分立を旨とする憲法の趣旨に反するものとなる。
そして、収容後に令書の発付が要求されるのならば、結局、収容令書を発付する主任審査官の中立性の問題は避けられないことになる。
 
このように、最高裁決定の論理は、相当な無理をして入管法上の強制収容という制度を違憲判断から守ろうとするものといえる。
 

4.結論

結局、入管法上の強制収容は、刑事手続き上の逮捕等と同じく人権侵害性の強い人身拘束であるにもかかわらず、収容令書の発付と執行が同一官署に属する官吏により行われており、刑事手続上の令状と同視できるような中立的機関からのチェックという性質を備えておらず、憲法33条の趣旨に著しく反する制度である。
最高裁の判断にもかかわらず、入管法上の強制収容は、違憲の疑いの濃厚な制度であると考える。

*1:ローマ数字の1

*2:https://twitter.com/qua_gma/status/267271805352427520 https://twitter.com/qua_gma/status/267278405060411392

*3:法定手続保障

*4:住居の不可侵

*5:不利益供述の強制の禁止

*6:成田新法事件・最大判1992.7.1民集46-5-437、および川崎民商事件・最大判1972.11.22刑集26-9-554

*7:後述の判例も、引用されている部分を読む限りでは、入管法上の強制収容手続に憲法33条の保障が及ぶことを前提に考えているようである。(追記:この注の記述は誤り。)

*8:正確には、退去強制事由該当者の強制収容だろう。入管法39条1項および24条参照。

*9:雑誌「判例タイムズ」のこと

*10:どころか、期間の制限がない点で刑事手続以上に強度の人権侵害性を備える

*11:日付が示されておらず決定の原文に当たることができないが、これは、最高裁判所民事判例集民集)といった公式判例集に掲載されていないことによるのだろうか。(追記:この記事を書いたあと、本決定は特定できた。最決1974.4.30集刑192-407、裁判所ウェブサイトhttp://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=59750&hanreiKbn=02である。)

*12:なぜ最高裁が東京高裁とは異なった判断を示したのかは、東京高裁判決のように正面から入管法上の強制収容の合憲性に踏み込むことを回避するためなのではないか、と疑うことも可能であるように思われる。とすると、あの最高裁ですら、同書が指摘する上記のような問題が全く存在しない、入管法上の強制収容という制度は合憲である、と言い切ることはためらった、とも考えられるのではないか。もっとも最高裁の判断も、強制収容という制度の正当化をうまくやりおおせているとは到底いえないのはすぐ後に述べるとおりである。

*13:入管法43条1項、24条参照

ハワード・ジン『肉声でつづる民衆のアメリカ史・下巻』目次

第16章 第二次世界大戦マッカーシズム
 1 ポール・ファッセル*1「正確な爆撃で戦争に勝つ」 1989
 2 ユリ・コウチヤマ「そのあと強制収容所*2がやってきた」 1991
 3 山岡ミチコ「爆心地から八〇〇メートル」*3 1992
 4 アメリ戦略爆撃調査団報告書「原爆投下なしでも日本は降伏した」 1946.7.1
 5 ジーン・ラロック提督、スタッズ・ターケルに語る「良い戦争」 1985
 6 カート・ボネガット『屠殺場五号』*4 1969
 7 ポール・ロブソン、連邦下院非米活動委員会*5で読み上げることを許されなかった声明 1956.6.12
 8 ピート・シーガー「汝、歌うなかれ」*6 1989
 9 I・F・ストーン「しかしマッカーシズムは、ジョー・マッカーシーだけを指すのではない」 1954.3.15
 10 ローゼンバーグ夫妻(エセルとジュリアス)*7、子どもたちへの最後の手紙 1953.6.19
 
第17章 人種隔離に対する黒人の憤激
 1 リチャード・ライト『黒人一二〇〇万人の声』 1941
 2 ラングストン・ヒューズ『お預けを喰らった夢、そのモンタージュ』 1951
  (a)「夢のブギウギ」 1951
  (b)「ハーレム」 1951
 3 アン・ムーディ『スィットイン―ミシシッピ州で成年に達するということ』*8 1968
 4 ジョン・ルイスリンカーン記念堂前で許されなかった演説*9 1963.8.28
 5 マルコムX「草の根の民への伝言」 1963.11.10
 6 マーサ・ハニー、ミシシッピ「自由の夏(フリーダム・サマー)」運動*10の現場からの手紙 1964.8.9
 7 ファニー・ルー・ヘイマー、選挙人登録のさい受けた迫害*11 1964.8.22
 8 リタ・L・シュワーナー、夫マイケルを含む活動家三人の「失踪」*12について 1964
 9 アリス・ウォーカー「かつて昔」 1868
 10 サンドラ・A・ウェスト「黒人の目から見たデトロイト暴動*13」 1967.7.24
 11 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア「ここからどこへ?」 1967.8.16
 
第18章 ベトナム戦争と歴史に残る民衆の抵抗運動(レジスタンス)
 1 ミシシッピ自由民主党マコーム支部「ニグロはベトナムで戦うべきではない」 1965.7.28
 2 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアベトナムを超えて」 1967.4.1
 3 学生非暴力調整委員会「アメリカによるベトナム介入に反対する」 1966.1.6
 4 ボブ・ディラン「戦争の親玉」 1963
 5 モハメド・アリ「いったい何の権利があって俺に軍服を着ろと言うのか」*14 1966
 6 ジョナサン・シェル『ベン・スク村』 1967
 7 ラリー・コルバーン「彼らは民衆を屠殺していた」*15 2003
 8 ヘイウッド・T“ザ・キッド”カークランド「黒人帰還兵の語るベトナム戦争―しかし結局はみな惨殺だった」 1984
 9 ラング・ウング「殺戮原野―人々は姿を消し誰も何も言えなかった」*16 2003
 10 ティム・オブライエン「俺が殺った男」 1990
 11 マリア・エラーラ=ソウベック、ベトナム戦争に関する詩二篇*17 1999
 12 ダニエル・エルズバーグ『秘密―ベトナムペンタゴン・ペーパーズについての回想録』*18 2003
 
第19章 既成の価値観に反逆する人々
 1 アレン・ギンズバーグアメリカ」 1956.1.17
 2 マーティン・デュバーマン『ストーンウォール』*19 1993
 3 ワムスッタ(フランク・B)ジェームズ、プリマスロック上陸三五○年記念式典で述べることを禁止された演説*20 1970.9.10
 4 アドリエンヌ・リッチ『女から生まれる』 1977
 5 アビー・リンカーン「誰が黒人女を崇めようか」 1966.9
 6 スーザン・ブラウンミラー「中絶は女の権利」*21 1999
 7 アッサタ・シャクール(ジョアン・チェシマード)*22「刑務所、夢が見捨てられた地から来た女たち」 1978.4
 8 キャサリン・ニール・クーパー*23「女、権力、そして革命」 1998.10.16
 
第20章 一九七○年代、青ざめる権力者たち*24
 1 ハワード・ジン「市民的服従こそ問題だ」*25 1970.11
 2 ジョージ・ジャクソン*26『ソルダッドの兄弟―獄中からの手紙』 1970
 3 ボブ・ディラン「ジョージ・ジャクソン」*27 1971
 4 アンジェラ・デイビス*28「政治囚、刑務所、そして黒人解放」 1970
 5 アッティカ暴動についての、二人の声*29(1971年と2000年)
  (a)エリオット・ジェームズ(“L・D”)バークリー 1971.9.9
  (b)フランク“ビッグブラック”スミスへのTVインタビュー 2000
 6 レオナルド・ペルティエ、アメリカ・インディアンの抗議運動「破られた条約をたどる旅」*30 1999
 7 「政府・CIAによるチリでの秘密工作、一九六三年から一九七三年」に関する特別委員会報告*31 1975.12.18
 8 ノーム・チョムスキー「コ・インテル・プロ*32―大手メディアから“消された”ものは何だったのか」 1978.3.12
 
第21章 カーター、レーガン、ブッシュ―民主党共和党の実質的合意*33
 1 マリアン・ライト・エーデルマン*34、ミルトン・アカデミー*35の卒業式での挨拶「民主主義はスポーツ観戦ではないのです」 1983.6.10
 2 セザール・チャべス*36、カリフォルニア・コモンウェルス・クラブ*37での挨拶「農業労働者の正義を求める未完の闘い」 1984.11.9
 3 イスマエル・グアダルペ・オルティス、「ビエケス島*38の軍事基地化反対」裁判での最終陳述 1979.10.2
 4 精肉労働者が語るホーメル社ストライキ(一九八五〜八六年)*39「いまや人間と世界を見る眼が変わった」 1991
 5 ダグラス・A・フレーザー*40「企業側は一方的な階級闘争を選択した」 1978.7.19
 6 ビト・ルッソ「なぜ私たちエイズ患者は闘うのか」*41 1988
 7 アビー・ホフマン、「CIAによる学生リクルート」裁判*42での最終陳述 1987.4.15
 8 パブリック・エネミー「権力と闘え」 1990
 
第22章 パナマ侵攻*43湾岸戦争*44、そして国内における都市暴動
 1 アレックス・モルナール「もし海兵隊員の私の息子が殺されたら…」*45 1990.8.23
 2 イクバール・アフマド「湾岸戦争の根っこにあるもの」*46 1990.11.17
 3 ジューン・ジョーダン「黒人として湾岸戦争に反対します」*47 1991.2.21
 4 ヨランダ・ユエ=ボーン「医師として湾岸戦争への従軍を拒否します」*48 1991.1.9
 5 リオ・ハト*49軍事基地の民間労働者「パナマ侵攻がもたらしたものはIMF政策の強制だった」 1990.2.23
 6 マイク・デイビス「ロス暴動では、すべての夢と幻想を燃やし尽くした」*50 1992.6.1
 7 ムミア・アブ=シャマール『すべては検閲されている』*51 2001
 
第23章 ビル・クリントンへの異議申し立て*52
 1 ブルース・スプリングスティーン『トム・ジョードの亡霊』 1995
 2 ローレル・パターソン、「交戦地帯」イリノイ州ディケーター*53でのストライキ 1995.6
 3 ウィノナ・ラデューク*54緑の党アメリカ副大統領指名にたいする受諾演説 1996.8.29
 4 クリントン政権への公開抗議文、二通
  (a)アリス・ウォーカー「あなたのキューバ禁輸法*55は間違いです」 1996.3.13
  (b)アドリエンヌ・リッチ「芸術は権力のディナーテーブルを飾るためのものではありません」*56 1997.7.3
 5 ラニア・マスリ*57イラク経済制裁「まだどれだけ死ねというのか」 2000.9.17
 6 ロニ・クロウズマン「WTO、シアトルの闘い―現場からの報告」*58 1999.12.6
 7 アニタ・キャメロン「ついに階段は崩れ去った―ADAP*59のHBA*60との闘い」 2000
 8 エリザベス”ベチタ”マルチネス「茶色いやつら*61を追放しろ!」 1998
 9 ウォルター・モズリー『チェーン・ギャング*62として働くということ』 2000
 10 ジュリア・バタフライ・ヒル*63「嵐を乗り越えて―千年杉の教え」 2001
 
第24章 ブッシュ二世と「対テロ戦争
 1 マイケル・ムーア「大統領職―またひとつ、お手当だね」 2000.11.14
 2 オーランド・ロドリゲスとフィリス・ロドリゲス*64「息子の死を利用して戦争をするのはやめてください」 2001.9.15
 3 リタ・ラサール*659・11の再来を避けるためにアメリカは世界と手を結ばねばなりません」 2002.9.5
 4 モナミ・マウリク「反アラブ・反南アジア・反イスラムの暴力に抗して」*66 *67 *68 2001
 5 全国トラック運転手組合七〇五支部イラク戦争反対決議」*69 2002.10.18
 6 レイチェル・コリー*70パレスチナ便り 2003.2.7
 7 ダニー・グローバー、世界反戦デー*71での演説 2003.2.15
 8 エイミー・グッドマン「戦時における独立メディア」*72 2003.4.21
 9 従軍兵士ティム・プレドモア「人殺しはもうやめにしませんか」*73 2003.8.24
 10 マリツァ・カスティーリョ等、マイケル・G・ジョーンズ退役アメリカ陸軍大佐への公開状*74 2003.9.12
 11 カート・ボネガット「冷えた七面鳥(コールド・ターキー)」 2004.5.31
 
第25章 戦争と不正義、声を上げはじめた民衆
 1 カミーロ・メヒア*75「貧しく抑圧されている人々にこそ私は忠誠を誓う」 2005.7.3
 2 シンディ・シーハン*76反戦聖歌隊が歌いはじめるときです」 2005.8.5
 3 ケビン・ティルマン「兵士が死ねば死ぬほど違法侵略が合法となる」*77 2006.10.19
 4 エバン・オーレック=ジェッター「私の二人のお母さんを認めてください」*78 2009.3.18
 
エピローグ
 パティ・スミス「俺たち民衆には力がある」 1988

*1:「いわゆる「良い戦争」の潔白さに敢えて疑問を投げかけた著作家はきわめて少なかった。そのひとりがポール・ファッセルであ」る。本書(以下同)p27

*2:「ユリとその家族は、真珠湾攻撃後の反日ヒステリーの波のなか、一斉検挙された西海岸の日系アメリカ人一二万人の一員だった。フランクリン・F・ローズベルトは、一九四二年二月一九日、大統領命令九〇六六号に署名し、捜査令状・起訴状・聴聞会なしに、すべての日系人…を逮捕し…収容所に移送し…監禁する権限を、陸軍に与えた。」p31

*3:「爆撃を生きのびた山岡ミチコは、以下の文章で、一九四五年八月六日の恐ろしい朝を描写している。」p41 言うまでもなく広島市の、である。

*4:カート・ヴォネガットスローターハウス5http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B95-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%AB-SF-302-%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%8D%E3%82%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2/dp/415010302Xのことだと思われる

*5:「一般にHUACとして知られ」、「アメリカ内の「破壊」活動を調査する目的で一九三八年に設立された」が、「一九四七年に、ハリウッドの作家・俳優・監督を…喚問し、映画産業に共産主義者の影響を及ぼしたとする証拠を発見しようとした。」「攻撃の対象として白羽の矢があてられた芸術家のひとりが、偉大な歌手・俳優であるポール・ロブソンだった。」p67

*6:「以下は、フォーク歌手ピート・シーガーが、その夜の恐ろしい事件を記録したものである。」p73-74 すなわち、KKKが仕組んだとされる一九四九年九月四日のピークスキル暴動である。著者ハワード・ジンは、妊娠中の妻と二歳の娘とともに、同地野外で開催されたポール・ロブソン出演のコンサートに出かけてきていたのだという。そして、暴動の群衆に襲撃され、車の同乗者が負傷した。

*7:「冷戦の反共ヒステリーの最も暗い瞬間のひとつが、一九五三年六月一九日におこなわれたローゼンバーグ夫妻…の処刑であった。この夫妻は原子爆弾の秘密をソ連邦へもらしたという理由で告訴された。」p86

*8:「大きな個人的な危険にもかかわらず、黒人は市民的不服従によって、人種隔離の境界線に体をはって挑戦し始めた。…一九六〇年代前半には、学生が南部の簡易食堂(ランチカウンター)での人種差別撤廃運動を始めた。この座りこみ(スィットイン)運動で最も重要なもののひとつが、一九六三年五月二三日、ミシシッピ州ジャクソンのウルワース雑貨店で行われた。」p99-100 アン・ムーディはこの座り込み参加者の一人であった。

*9:「一九六三年八月二八日…『仕事と自由を求めるワシントン大行進』には、二〇万人以上が参加し…リンカーン記念堂前の広場を…埋め尽くした。この大集会は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの歴史的演説『私には夢がある』がなされた場として最もよく記憶されているが、恐らくこの日の最も戦闘的な演説は…ジョン・ルイスによるものだった。しかしキングなど著名な公民権運動指導者からの圧力で、ルイスは演説原稿の語調を和らげざるをえなかった。」p107

*10:公民権運動から…生まれた…最も重要な新しい組織のひとつが、学生非暴力調整委員会(SNCC)、通常「スニック」と呼ばれる組織だった。…一九六四年、この集団は、ミシシッピ州に来て、選挙人登録運動や『自由の学校(フリーダム・スクール)』運動その他の計画に参加するよう若者に呼びかけた。…その志願者のひとりであった、活動家で作家のマーサ・ハニーの手紙である。」p115

*11:公民権運動家ファニー・ルー・ヘイマーは…一九六二年…選挙人登録に行くために、インディアノラの庁舎に向かう一八人の黒人集団に合流した。その当時、ミシシッピ州で選挙人登録されていたのは黒人の七%に満たなかった。…ルールビルに戻ると、この集団は嫌がらせを受け、後に彼女は逮捕された。」p118

*12:「一九六四年の『ミシシッピ自由の夏(フリーダム・サマー)』運動の期間中、一〇〇〇人を超える北部出身の白人大学生が、人種差別と黒人有権者公民権剥奪に挑むために南部を旅した。…六月二一日、『自由の夏(フリーダム・サマー)』の皮切りに、ミシシッピ州の若い黒人ジェームズ・チェイニー、北部出身の二人の白人マイケル・シュワーナーとアンドルー・グッドマンは、黒人教会の爆破事件を調べるため、ミシシッピ州フィラデルフィアへ車で向かった。三人は二度と帰らず、直ちに行動をという司法省への嘆願は冷ややかに扱われた。…埋められた遺体が発見されたのは…四四日も経ってからだった。」p123-124

*13:「一九六七年七月、激しい人種差別と貧困と警察の残虐行為にたいして…都市反乱が…デトロイトで三日間続いた。…事件では四〇人以上のアフリカ系アメリカ人が殺され、七〇〇〇人以上が逮捕された。」p142

*14:1966年「この歯に衣着せぬボクサーはマスメディアで散々に叩かれた。ベトナムでの兵役について良心的兵役拒否を申請したが受理されず、徴兵を拒否したからだ。その結果、ヘビー級王座も剥奪され、禁固五年の宣告を受けた。…アリの闘いは最高裁判所にまで及び、一九七一年の無罪確定まで続いた。」p171

*15:「一九六八年三月一六日、アメリカ合州国歩兵一個中隊がミライ村に入り、銃による敵対的な攻撃など全くなかったのに、大部分が女・子どもからなるベトナム農民五〇〇人を、冷酷無比に整然と虐殺した。…ヘリコプター射撃手ラリー・コルバーンは…現場に遭遇し、殺害の一部を制止したようすを、次のように述べている。」p182

*16:アメリカのカンボジアへの戦争拡大は…カンボジアで一九七五年に、残虐な『赤いクメール(クメール・ルージュ)』を政権の座に就かせるのに一役を買った。『赤いクメール』の恐怖政治が支配するカンボジアの『殺戮原野(キリング・フィールド)』で、何百万人ものひとが死んだ。…カンボジア難民ラング・ウングは、プノンペンの強制立ち退きと、その後に起きた身の毛もよだつ出来事を記述している。」p193

*17:「詩人マリア・エラーラ=ソウベックは、ベトナム戦争におけるチカノ[メキシコ系アメリカ人]とラティーノ[ラテンアメリカアメリカ人]の、これまでほとんど見過ごされてきた経験について書いている。」p204

*18:ランド研究所の戦略分析家でアメリカ政府高官でもあったダニエル・エルズバーグは、国防長官ロバート・マクナマラ管轄の秘密研究『ベトナムにおけるアメリカの意思決定―一九四五〜六八年』に取り組み…この戦争を支持するために語られる嘘に、次第に憤激するようになり…一九七一年、彼は後に『ペンタゴン・ペーパーズ』として知られるようになった文書を『ニューヨークタイムズ』紙と『ワシントンポスト』紙などの新聞に漏洩(リーク)した。」p208-209

*19:「一九六九年六月二七日から二八日の夜、ニューヨーク市グリニッチビレッジ、クリストファー通りのゲイ・バー『ストーンウォール・イン』に集まった多人種からなる同性愛者の集団が、許可証なしに酒を提供していた、としてバーを閉鎖し客を逮捕しようとした警察に、抵抗した」p223

*20:マサチューセッツ州当局者は…ワムスッタ(フランク・B)ジェームズ…に演説を依頼した」が「ジェームズはアクイナー・ワンパノアグ族でありニューイングランドアメリカインディアンの一員だったので、結局、演説は許されなかった。…州当局者が、ワンパノアグ族の領土を植民地化した歴史について、真実を語ってほしくなかったのだ。」p231-232

*21:最高裁による『ロー対ウェード』判決(一九七三年一月二二日)が出るまでは、アメリカでは妊娠中絶は違法だった。…スーザン・ブラウンミラーは…『ロー対ウェード』判決以前に中絶を経験した自分の経験を思い出しつつ、女性たちがどのようにして『選ぶ権利』に対する連邦禁止令を廃止に追い込んだかを描写している。」p246

*22:ブラックパンサー党と黒人解放軍の一員で、FBIのコ・インテル・プロ(対破壊者諜報活動)…による鎮圧対象者でもあった。一九七三年五月三日、彼女は…他の二人とともに州警察に止められ…二発も撃たれた。…州警察官ひとりと彼女の仲間ひとりが殺され、シャクールは両方の殺人罪で起訴され…三三年の禁固刑を宣告されたが…逃亡」p250

*23:「学生非暴力調整委員会(SNCC(スニック))の活動家」にしてブラックパンサー「党の全国広報担当者かつ中央委員会の一員」(p261)であったという。

*24:「支配層は心配した。アメリカ・日本・西欧の政治指導者と一部の知識人は、一九六〇年代と一九七〇年代初めの民衆運動高揚に対処する戦略をつくりあげるため、三極委員会を組織した。ハーバード大学政治学教授サミュエル・ハンティントンによる三極委員会報告書は次のように結論づけた。『一九六〇年代の民主主義的高揚の本質は、現行の権力体制・社会体制・企業体制にたいする、一般民衆の挑戦だった』…これが『一九七〇年代に、民主主義による統治能力(ガバナビリティ)、にたいする疑問を引き起こすことになった』。ハンティントンは『民主主義の行きすぎ』という語句を引用し、『政治的民主主義を無制限に拡張することに、何らかの制限を設けることが望ましい』と提案した。」p273

*25:「私はボルティモアのジョーンズ・ホプキンズ大学に飛び、市民的不服従について、哲学者チャールズ・フランケルとの討論に参加した。その日、私は裁判に出廷することになっていた。軍事基地での抗議行動に参加したという廉で起訴されていたからだ。私は選択を迫られ…ボルティモアヘ行くことを選んだ。…翌日…二人の刑事が教室の外で待っていて、私は裁判所へ連行され、数日間の投獄を宣告された。以下は、ジョーンズ・ホプキンズ大学でその夜行った私の演説原稿である。」p273-274

*26:「ジョージ・ジャクソンは一六歳のとき、ガソリンスタンドから七○ドルを盗んだとして告発され、裁判では『禁固一年から終身刑』という宣告を受けた。毎年、彼の事件は再検討されたが、ジャクソンは決して仮釈放にはならなかった。カリフォルニア州サリナスのソルダッド刑務所にいるあいだ、ジャクソンは急進的になり、刑務所の壁の内と外の両方で、政治闘争の指導者となった。彼の刑務所からの手紙や他の文章は、人種差別、貧困、警察の残虐行為、司法制度の不正に、疑問を持っていた何百万の人々に届いた。…ジョージ・ジャクソンはその後…一九七一年八月二一日、裁判にかけられることになっていた数日前、看守たちに射殺された。」p287

*27:「一九七一年、ジョージ・ジャクソン殺害のニュースを聞くや否やスタジオに入り、その死を悼む新しい歌を録音し、すぐに一枚のシングルとして発売した。」p293

*28:「ジョージ・ジャクソンと仲間の受刑者二人(いわゆる“ソルダッドの兄弟”)への連帯活動をしていた。…指導的な黒人活動家であり、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の助教授でもあった。また…共産党の一員にもなっていた。」p297

*29:「一九七一年九月九日…ニューヨーク州アッティカ矯正施設(刑務所)で、一○○○人以上の被収容者が、刑務所での囚人にたいする扱いが残酷だ、と抗議して立ち上がった。…知事は…九月一二日…武力制圧を命じ…三二人の囚人と一一人の看守が死んだ。…以下はアッティカ暴動に参加した囚人二人の声である。」p304

*30:ネイティブ・アメリカンの活動家であるレオナルド・ペルティエは…一九七二年には『破られた条約をたどる旅』という、首都へのキャラバン運動に参加した。」p311

*31:「一九七四年と一九七五年、上院調査委員会[チャーチ委員会]はFBIとCIAを調査し、国内外における政府の犯罪を暴露した。そのひとつは、一九七三年、チリで民主的に選ばれたサルバドール・アジェンデ政権を転覆させた軍事クーデターで、ニクソンヘンリー・キッシンジャーアメリカ企業数社が陰謀を企んだものだった。」p315

*32:「co(unter)intel(ligence)pro(gram)の略。アメリカの対破壊者諜報活動。国家の治安を脅かす恐れがあると目された個人や組織の動きを隠密作戦で封じるFBI活動の一つ。スパイを潜入させて攪乱工作をおこない、ときには暗殺までも企画した。」p321訳注

*33:ジミー・カーター民主党政権と、ロナルド・レーガンジョージ・W・ブッシュ共和党政権…で、企業の力は肥大化し、巨大な富と同時に極貧がつくりあげられた。国家の軍事化が進行し、企業の利益を支えるための外交政策における干渉主義が進行した。どちらの政党も、資本主義と国家主義の限界を越えることはなかった。」p328

*34:「スペルマン大学とイエール大学法学大学院を卒業し、ミシシッピ州から弁護士と認められた初の黒人女性である。…キング牧師が率いた『貧者の行進』の法律顧問として働いた。」p328

*35:マサチューセッツ州のエリート校」p328であり、「ローズベルト一族、ケネディ家など著名人を輩出しているアメリカ屈指の進学校」同訳注

*36:「一九六〇年代はじめ、彼は全国農業労働者協会の創設を助けた。これは統一農業労働者組織委員会の先駆となった団体で、最終的には農業労働者組合(UFW)という組合になった。」p334

*37:アメリカにおける最古・最大の公共フォーラムで、世界的著名人を招いて講演させることでも有名」p335訳注

*38:「一八九八年のプエルトリコ占領以来、アメリカ政府はそこを植民地として扱い、必要とあればいつでもその土地を軍事目的に使用した。プエルトリコクレブラ島ビエケス島は、爆撃訓練に使用され、人々を家から追い立て、田園を分断し、多くの人を死に至らしめた。」p345

*39:「一九八四年後半、食品商業労働者組合(UFCW)のP9支部の組合員は、ミネソタ州オースティンの精肉会社ホーメル社による賃金と手当の大幅削減に反対する組織的運動をはじめた。一九八五年八月、支部組合員の九〇%以上が、組合の国際組織の指導部からの『譲歩しろ』という圧力にもかかわらず、ストライキに入ることを可決した。」p350

*40:「一九七八年、自動車労働組合(UAW)の委員長になった一年後…八つの企業の幹部と八つの組合の幹部から成る委員会…の委員を辞職した。この”労使関係グループ”は労働者と雇用者のあいだの『協力』を作りあげようという試みの典型例だったが…明らかになったのは、アメリカ企業が労働者と『協力』することに本当は興味がないということだった。『その代わりに彼らは、労働者・失業者、貧者・マイノリティ、若年層と老年層、それどころか中流階級の多くにさえ敵対する、一方的な階級闘争をおこなうことを選択した。』とフレーザーは辞職声明で述べている。」p360

*41:「一九八七年三月、エイズの危機に立ち向かうための政治運動が…アクト・アップ(エイズ解放連合)として旗揚げされ…『沈黙=死』というスローガンを広め、ぬるま湯につかった政治家・保健省役人・ジャーナリストなどの公的人物への、直接行動と市民的不服従に乗り出した。…活動家ビト・ルッソは…アクト・アップとゲイ・レズビアン名誉毀損防止組合の創立メンバーであるが、エイズを患う人々が、病気のせいではなく、同性愛嫌悪(ホモフォビア)・人種差別・無関心のせいで、どのように死んでいったかを語っている。ルッソ自身もエイズのため、一九九〇年、四四歳で死んだ。」p367-368

*42:「一九八六年、CIAによる大学キャンパスでのリクルートに反対するデモがマサチューセッツ大学アマースト校でおこなわれた。警察は一二人を逮捕した…。彼らは…不法侵入と治安紊乱行為で告訴された。」p374

*43:「一九八九年はじめに発足したジョージ・W・ブッシュ政権は、『ベトナムシンドローム』…を払拭しようと決意し…パナマを格好の餌食にした。…軍事独裁マヌエル・ノリエガは、かつてはCIA要員だったが、アメリカ政府にとって厄介者になりはじめていた。戦争の口実は、ノリエガが麻薬取引に関わっているというもの…だったが…戦争をしかける本当の理由は、パナマ運河を支配すること、そして他国に干渉する力がアメリカにあることを、世界に見せつけることだった。…首都パナマシティの爆撃は、街を灰燼に帰しただけでなく、少なくとも一○○○人の一般市民の死を招いた。ノリエガは逮捕され、アメリカの刑務所に投獄された。しかし肝心の麻薬取引は撲滅されることもなく続いた。」p385-386

*44:イラクの独裁者サダム・フセインは、かつてアメリカ政府のおきにいりで、武器も供与されていたが…一九九○年に、隣接する…クウェートに進攻した。ブッシュ政権は、クウェート進攻を終わらせる外交交渉をいかなるかたちでも拒絶し、イラクとの戦争をはじめた。…アメリカ空軍による重爆撃の結果…イラクでは数万人、おそらく一○万人の一般市民と兵士が死んだ。」p386

*45:「政府が一九九○年に、湾岸戦争の準備をしていたとき、ひとりの、父親でかつ『軍人家族支援ネットワーク』の創設者が、ブッシュ大統領に公開状を送った。」p387

*46:「イクバール・アフマドは、インド分割以前のインドに生まれ、パキスタンで育った。…一九九○年一一月、アメリカがイラクに大規模な猛攻撃を開始する二か月前、アフマドは…講演で、戦争への原動力の背後に隠れている動機を説明した。」p391

*47:「黒人の女性解放論者(フェミニスト)で、小説家・活動家のジューン・ジョーダンは、普通のひとたちの愛、願い、闘い、情熱について、個人的および政治的な両面で文章を書いてきた。」p404

*48:「ひどい危険に身を晒しつつ、二二○人以上の兵士が自らを…湾岸戦争への良心的兵役拒否者だと宣言した。その中で最も雄弁だったのは…医師ヨランダ・ユエ=ボーンだった。」p409

*49:パナマ市西南方100kmほどに位置。https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=+%E3%83%91%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%80%80%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%88+&ie=UTF-8

*50:「ロサンゼルス[で]一九九二年四月二九日…反乱が爆発した。その直接の原因は、一九九一年三月三日、四人の白人警官が…黒人男性ロドニー・キングを残忍に殴打した事件で、陪審が警官を無罪とした判決にあった。…マイク・デイビスは、労働史の専門家であり、作家であり、ロサンゼルスについての素晴らしい研究書『水晶都市』の著者であるが、以下の報告は、彼がその反乱とその後の鎮圧を直接取材したものである。」p419

*51:「ジャーナリストとして受賞歴もあるムミア・アブ=ジャマールは、間違いだらけの司法手続きによる一九八二年の裁判以来…死刑囚監房に収監されている。その裁判で、彼は警官…を銃で殺した罪で死刑判決を受けた。…アブ=ジャマールは、刑務所の内と外での人種差別、アメリカ刑務所体制の不正、貧者への戦争について、刑務所からラジオで一連の解説をおこない、多くの論評を書いてきた。」p426-427

*52:クリントンは性生活について語った嘘のために、下院に弾劾され」ていたが、「見落とされ、強調されなかったのは…被扶養児童をもつ貧困家庭への援助を保証するニューディール計画の終了、多くの刑務所建設、巨大な軍事予算の維持、彼の立法が共和党に大いに支持されたという事実、などである。」「海外において…たとえば就任してわずか五か月で…バグダッドに爆弾を落とそうと空軍を派遣した。」「また…イラク大量破壊兵器を所有しているという理由で爆撃したが、同時に、全面的な経済制裁を維持しつづけ、結果的に数十万人のイラク人の死を招いた。ケニアタンザニアアメリカ大使館が攻撃されたとき、クリントンはその報復としてアフガニスタンスーダンを爆撃したが、スーダンの場合、化学兵器を製造しているとして爆撃された工場は、じつは製薬工場だった。」「ソマリアの指導者間の抗争に干渉するため、ソマリアに軍隊を送った。殺されたソマリア人は数千人にものぼった。」p436

*53:「一九九○年代中頃、イリノイ州中央部のディケーターという小さな工業都市で、一○人に一人の労働者がストライキに入り、経営者は工場閉鎖(ロックアウト)で対抗した。世界中の労働運動家は、この町を『交戦地帯』と呼んだ。」p444

*54:ネイティブ・アメリカン環境保護活動家で作家」「ミネソタ州北部にあるホワイトアース保留地に住む先住民『ミシシッピ部族』のアニシナベ族であ」り、「消費者運動で有名なラルフ・ネーダーが一九九六年と二〇〇〇年の大統領選に立候補したとき、その副大統領候補として出馬した。二回とも『緑の党』公認だった。」p447-448

*55:クリントン政権は…キューバへの厳しい通商禁止を維持した」うえ、「通商禁止がヘルムズ=バートン法の通過でさらに強化されたとき、クリントンはその法案に署名した。」p453

*56:「詩人アドリエンヌ・リッチは、一九九七年に国民芸術栄誉賞の授与を知らされたが、その受賞を拒否した。」p458

*57:イラクを標的とするアメリカの行動に最も強く反対した人物であり、『イラク行動連合』の創設者である」p460

*58:「一九九九年一一月下旬から一二月にかけて、多くの国から財界指導者がアメリカのシアトルで行われた世界貿易機関WTO)の会合に集まった。」「世界中から集まった活動家たちは…シアトルで独自のサミット、すなわち…IMFやWBやWTOの考え方を拒絶する人々のグローバルな終結を計画」「大規模な警察の鎮圧にもかかわらず、数万人の人々が街頭で巨大な抗議デモを展開した。」「デモはWTOの開催を遅らせ…早々に解散させることに成功した。」p464-465

*59:「介護制度即時要求全国障害者同盟」「公共交通機関の利用を求める、公民権闘争の一部として始まった」p472

*60:「住宅建築業者協会」「障害者にも利用可能な家を建てるための連邦規定に、従うことを拒否した」p472

*61:ここではチカノすなわちメキシコ系アメリカ人のこと

*62:「屋外労働のために一本の鎖でつながれた囚人たち。鎖でつながずに働かせる囚人たちはワーク・ギャングと呼ばれた。」p483訳注

*63:「太平洋木材会社がその木を切り倒すのを阻止しようとし」て「樹齢一〇〇〇年のアメリカ杉の上で、七三八日間生活した。」「結局、太平洋木材会社は…その木を伐採しないことに同意した。」p488

*64:9・11を戦争の口実として使うことに反対して声を上げた最初の二人」「夫妻の殺された息子グレゴリーは、当時まだ三一歳だったが、その日、世界貿易センター一〇三階で働いていた。」p503

*65:二〇〇一年九月一一日に弟…エイブ…を失った。彼は逃げようと思えば逃げられたのだが、四肢麻痺障害者の同僚…を助けるために、その場に留まった。ブッシュ大統領がワシントンDCの国立大聖堂での弔辞で、エイブの英雄的行為に言及したとき、ラサールは、弟の犠牲がアフガニスタン侵略正当化のために利用されることに、激しい憤りを表明した。」p505

*66:9・11攻撃の結果、政府は市民的自由を制限する法案をいくつも通過させた。最も悪名高いのはアメリ愛国者法[次注参照]だった。」「ブッシュ大統領は、反イスラムの偏見を否認はしたものの、イスラム教徒や、南アジア人や、他の有色人種が標的になることは明らかだった。」「モナミ・マウリクは、クイーンズ[ニューヨーク市]を拠点とする南アジア人の地域組織DRUM(立ち上がり行動するデーシ[次々注参照]たち)の活動家」である。p508-509

*67:アメリ愛国者法は「9・11事件の四五日後に成立し、政府当局に巨大な権限を拡大させた時限立法。令状なしに、電話・Eメール・医療情報・図書館貸出記録を調査する権限を当局に与え、とりわけ外国人の入国者に対してはテロに関係すると疑われただけで留置・追放する権限を与えた。」「二○○五年に恒久法として可決され、オバマ政権もこれを継続し、さらにこれを強化しようとする動きすらある。」p509訳注

*68:デーシとは「アフガニスタンバングラデシュブータン、インド、ネパール、パキスタンスリランカガイアナトリニダード・トバゴの諸国からの移民。」p509訳注

*69:ブッシュ大統領イラク攻撃によってアフガニスタン戦争を継続・拡大することがはっきりしたとき、全国の労働組合の多くが、戦争開始反対の決議を可決した。」p512

*70:「大学の学生で、『正義と平和を求めるオリンピア運動』の一員だが、二○○三年初め、国際連帯運動(ISM)とともに、ボランティアとしてパレスチナガザ地区を旅行した。二○○三年三月一六日、コリーは、イスラエル軍によるパレスチナ人の家の破壊を阻止しようとして、キャタピラー者のブルドーザーに轢き殺された。」p514

*71:「世界中で一○○○万人以上が、二○○三年二月一五日、イラク戦争に反対してデモ行進をおこなった。人類史上、最大の組織的な抗議だった。全国で一○○万人以上がデモ行進に加わった。」p518

*72:クリントン政権時代とブッシュ政権時代、メディアはますます少数の手に集中するようになった。…活動家たちは、利益のために真実を犠牲にしない独立メディアの発信を模索した。これらの試みのなかで最も重要なものに、『パシフィカ・ラジオ』ネットワークと番組『デモクラシー・ナウ!』を守る運動があった。この番組は、フアン・ゴンザレスとエイミー・グッドマンの共同司会で、とくに9・11以後は、企業メディアがほとんど取り上げない多くのニュースを特集した。」p521

*73:アメリカ政府が…二○○三年三月二○日にイラク攻撃を開始した後、異議申し立ての最も重要な声は、兵士とその家族であった。」同年「八月、イラクのモスルで従軍しているあいだに…兵士ティム・プレドモアは、次の声明文を書」いた。p528

*74:イラクに送られた州兵の親戚二○人は、フロリダ州軍事部のマイケル・G・ジョーンズ(退役)アメリカ陸軍大佐宛の公開状に署名した。」p531

*75:イラクに従軍しジョージ・ブッシュの戦争を戦いつづけることに、拒否を表明した最初のアメリカ軍兵士だった。軍事裁判所は、メヒアに、判決として七か月の監禁を命じた。」p545

*76:「シンディ・シーハンの息子ケイシーは、二〇〇四年四月四日、イラクで戦死した。」「テキサス州クロフォードにあるブッシュ大統領の別荘に、屋外キャンプを張りに行」ったが、「大統領は、シーハンに面会することを拒否した」p547-548

*77:「二〇〇四年にアフガニスタンで死んだ」「パット・ティルマンが『友軍の誤射』事件で自分の隊員の手にかかって死んだことが判明したとき、ペンタゴンホワイトハウスはその情報を押さえ、ティルマンの家族や弟ケビンにさえ秘密にした。」p552

*78:二〇〇九年春、ゲイとレズビアンの家族の、平等な権利を求める運動が、アイオワ州バーモント州その他で重要な勝利をおさめた。バーモント州では議員たちが、同性婚の権利を議会で議論する際に、エバン・オーレック=ジェッターの感動的な証言に、しばしば言及した。エバンは中学生で、上院下院合同の司法委員会公聴会で証言した」p555

8月30日14時12分付YOMIURI ONLINE記事の見出しがよりミスリードの度合いを上げている件について

昨日こんなこと書いたんだけど。
同じ日の午後2時過ぎに出たYOMIURI ONLINE記事の見出し「入管施設60人ハンスト、難民認定長期化に抗議」だって。

法務省の「東日本入国管理センター」(茨城県牛久市久野町)で、難民認定を求めるなどして収容されている外国人の一部が、提供される給食を食べるのを拒否していることが29日、わかった。
同センターによると、28日現在、約400人の収容者のうち約60人が給食をとっていないという。
外国人労働者や難民の支援団体「BOND」(高根淳代表)によると、難民認定手続きが長引くなどの理由で同センターに長期間留め置かれているスリランカ、ガーナなど約20か国の120人が20日からハンガーストライキを始めた。入所者は、面会した同団体メンバーに「長期収容をやめてほしい」と訴えたという。長期収容者の多くは半年以上留め置かれ、2年以上収容されている人もいるという。
(2012年8月30日14時12分 読売新聞)

入管施設60人ハンスト、難民認定長期化に抗議


「に」の一語を入れることでよりミスリードの度合いが上がっていることに注目したい。
 
ささいなことですが。