8月30日付読売新聞の入管ハンストを報道する記事について

読売新聞朝刊39面(社会面)の、連載四コマ漫画コボちゃん」の下に位置するあたりに、牛久入管のハンガーストライキ*1についての記事が掲載されていた。
http://f.hatena.ne.jp/quagma/20120830075600
まずは、このようなことが起きていることを報道する記事が、紙面でも比較的目立つ位置にそれなりの大きさで掲載される、ということ自体は、よいことだと思う。
 
しかし「難民認定長期化 抗議か」という見出しは何なのか。
これではまるで、被収容者が抗議しているのは直接には「難民認定手続きの長期化」であり、その迅速化を訴えているだけのように見えてしまう。
しかし実際の問題はそんなところにはなく、長期収容そのもの、そしてそこにおいて起こる様々な人権侵害が問われているのである*2
記事の文面を読めば、入所者が「長期収容をやめてほしい」と訴えた、と正しく書かれているのだが、この見出しと併せて読むと、収容の長期化が「難民認定手続きの長期化」という「仕方のないもの」と見えなくもない理由によって引き起こされているように読めてしまう。
この見出しは、(巧妙にも?)被収容者の訴えを曖昧化し、誤った理解に導くものになってしまっている。
 
また、「難民認定手続きが長引くなどの理由で同センターに長期間留め置かれている…」という文面も、完全な虚偽とまではいえないものの、事態を正確に記述することを回避するものなのではないか。
実際には難民認定手続きの遅滞によって収容が長期化しているのではない(すくなくとも主要な理由はそれではない)*3。また、収容されている人で、難民認定手続きをしておらず難民認定されることを望んでいるわけでもない人も多くいるはずである。
これもまた、読む者を誤った理解に導くものになってしまっていると言えるだろう。
 
このような記事になったのが、あえてミスリードを狙ったものか、単に記者の理解不足によるものかは、わからない。
しかし、いずれであれ、この記事が、かえって入管の収容所の人権侵害的な実態という問題を覆い隠すものとなってしまっているのは事実だ。
残念なことである。

*1:くわしくはこちらhttp://praj-praj.blogspot.jp/2012/08/blog-post_21.html参照

*2:こちらhttp://praj-praj.blogspot.jp/2012/08/blog-post_21.htmlの資料1「東日本センター被収容者の要求書」参照

*3:仮放免者の会(PRAJ) のブログhttp://praj-praj.blogspot.jp/の過去記事を読めばそのことは理解できる

ハワード・ジン『肉声でつづる民衆のアメリカ史・上巻』目次

図書館で借りてきた。
本書は

支配する側からではなく民衆の視点に貫かれた名著『民衆のアメリカ史』の元になった民衆の肉声を伝える手紙、演説、文学作品……。ときに権力の横暴や戦争に対して怒り、ときに民衆同士の心温まる交流を語る珠玉のアンソロジー

肉声でつづる民衆のアメリカ史 内容紹介

という内容の本なのだが*1、とても貸し出し期間中に読みきれる厚さではなく、そもそも頭から通読するようなタイプの本でもない。むしろ買って手元に置いておきたい本なのである。しかしいかんせん高価すぎる*2
そこでせめて(といっては何だけれど)目次だけでもここにアップしてみることにした。各節タイトルのあとに付されている数字は、その文書が書かれた(発表された)年月日である。
とりあえず上巻の分だけ。
目次だけでも圧倒される。

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第1章 コロンブスとラス・カサス
 1 クリストファ・コロンブス『航海日誌』*3 1492.10.11-15
 2 バルトロメ・デ・ラス・カサス、コロンブス伝説にかんする二つの文書(1542年と1550年)
  (a)『インディアスの破壊についての簡潔な報告』*4 1542
  (b)『インディオ擁護論』*5 1550
 3 エドゥアルド・ガレアーノ『火の記憶』*6 1982


第2章 初期の奴隷制と奴隷の反乱*7
 1 奴隷反乱にかんする手紙三通*8
  (a)ロンドンのブーン氏への、差出人不明の手紙 1720.6.24
  (b)バージニア州ピーターズバーグからの手紙 1792.5.17
  (c)秘密を守る同志リッチモンド(不詳)から、秘密を守る同志ノーフォーク(不詳)への手紙 1793
 2 奴隷制に反対する請願書四通*9
  (a)“フェリックス”、解放を求める奴隷の請願書 1773.1.6
  (b)ピーター・ベステスト他の奴隷、解放を求める請願書 1773.4.20
  (c)北アメリカ最高司令官トーマス・ゲイジへの「大勢の黒人の請願書」 1774.5.25
  (d)マサチューセッツ邦議会への「大勢の黒人の請願書」 1777.1.13
 3 ベンジャミン・バネカー、ジェファソンへの手紙*10 1791.8.19


第3章 植民地における年季奉公人の、隷属と反乱*11
 1 リチャード・フレソーン「イギリスに戻れるなら手足をもがれてもかまわない」*12 1623.3.20-4.3
 2 『バージニア植民地におけるベーコンの反乱、その勃発・進展・終結の真相。国王陛下の委員会におけるもっとも謙虚で公平な報告書』*13 1677
 3 ニューハンプシャー植民地議会の、マスト材反乱についての宣言*14
 1734
 4 マサチューセッツ植民地総督ウィリアム・シャーリー、通商院への手紙「海軍提督ノールズに対する暴動について」*15 1747
 5 『ゴットリーブ・ミッテルベルガーの旅−一七五○年にペンシルバニアに旅立ち、一七五四年に帰還』*16 1754
 6 ニューヨーク植民地の借地人暴動についての記事*17 1766.7.14

第4章 アメリカ独立革命への道*18
 1 マサチューセッツ植民地の副総督トーマス・ハチンソン、ボストンにおける印紙税法への反対運動を語る*19 1765
 2 サミュエル・ドラウン、ボストン虐殺事件についての証言*20 1770.3.16
 3 ジョージ・ヒューズ、ボストン茶会事件の回想*21 1834
 4 ニューヨークの職工による、独立宣言*22 1776.5.29
 5 トーマス・ペイン『コモンセンス』 1776

第5章 独立革命いまだ成らず―革命軍兵士の反乱
 1 ジョーゼフ・クラーク、スプリングフィールドの反乱についての手紙 1774.8.23
 2 ジョーゼフ・プラム・マーティン『独立革命軍兵士の、冒険と危険と苦難の物語』 1830
 3 サミュエル・デウィーズ『革命軍内部の反乱鎮圧は、残酷な手順をふんで完璧におこなわれた』 1844
 4 ヘンリー・ノックス、ワシントンへの手紙 1786.10.23
 5 “パブリアス”(ジェームズ・マディソン)『連邦主義者(フェデラリスト)』第一○章 1787.11.23

第6章 初期の女性解放運動
 1 マリア・スチュワート「私たちがブドウの木を植えたのに、果実を食べたのは彼らだ」 1833.2.27
 2 アンジェリーナ・E・グリムケ・ウェルド「北部の力が奴隷制バスティーユをぐらつかせた」 1838.5.17
 3 ハリエット・ハンソン・ロビンソン「女工が初めてストに立ち上がったとき」 1898
 4 S・マーガレット・フラー・オッソリ『一九世紀の女性』 1845
 5 エリザベス・ケイディ・スタントン、セネカフォールズ大会「女性の独立宣言」 1848.7.19
 6 ソジャーナ・トゥルース「あたしが女じゃないっていうの?」 1851
 7 ルーシー・ストーンとヘンリー・B・ブラックウェル、結婚式で読み上げた「男女同権」声明 1855.5.1
 8 スーザン・B・アンソニー投票権がないからこそ投票に行ったのです」 1873.6.19

第7章 インディアン強制移住
 1 テクムセ「白人が求めるのは唯ひたすら狩猟地すべてを奪うことだけ」 1811-12
 2 チェロキーの強制移住にかんする二つの文書(1829年1830年
  (a) チェロキー国の外交文書「土地の蚕食はインディアン交易法に反する」 1829.12
  (b) チェロキー議会総会「強制移住にかんするアメリカ国民への訴え」 1830.7.17
 3 ブラックホーク、降伏演説 1832
 4 ジョン・G・バーネット「一兵卒がみたチェロキーの強制移住」 1890.12.11
 5 ネズ・パース族首長(チーフ)ジョーゼフ、二つの陳述(1877年と1879年)
  (a)ジョーゼフ首長、降伏宣言 1877.10.5
  (b)ジョーゼフ首長、首都ワシントンへの旅を語る 1879
 6 ブラックエルク「ひとつの民の夢が死んだ」 1932

第8章 奴隷州を拡大するためのメキシコ戦争
 1 イーサン・アレン・ヒッチコック大佐の日記 1845.6.30-1846.3.26
 2 メキシコ大統領ミゲル・バラガン「入植者によるテキサスの併合・植民地化を許すな」 1835.10.31
 3 ファン・ソト、脱走を呼びかけるビラ 1847.6.6
 4 フレデリック・ダグラス「メキシコ戦争奴隷制拡大の戦争だ」 1849.5.31
 5 『北極星(ノース・スター)』紙の論説「これは奴隷所有者ポーク大統領の戦争だ」 1848.1.21
 6 ヘンリー・デイビッド・ソロー『市民的不服従』 1849

第9章 奴隷制に対する抵抗と反乱
 1 デイビッド・ウォーカー『訴え』 1830
 2 ハリエット・A・ジェイコブズ『ある奴隷少女の自伝』 1861
 3 新聞広告「ジェイムズ・ノーコムの逃亡奴隷ハリエット・ジェイコブズを逮捕した方に礼金進呈」 1835.6.30
 4 ジェームズ・R・ブラッドリー、リディア・マリア・チャイルドへの手紙 1834.6.3
 5 セオドア・パーカー師「自由州ボストン市は奴隷州の臣民か」 1854.5.26
 6 奴隷による、元の奴隷所有者への手紙二通(1844年と1860年
  (a)ヘンリー・ビブ、ウィリアム・ゲイトウッドへの手紙 1844.3.23
  (b)ジャーメイン・ウェズリ・ロウグエン、サラ・ロウグへの手紙 1860.3.28
 7 フレデリック・ダグラス「黒人にとって7月4日とは?」 1852.7.5
 8 「ジョン・ブラウンの最後の演説」 1859.11.2
 9 オズボーン・P・アンダーソン『ハーパーズフェリー襲撃事件の生き証人』 1861
 10 マーティン・ディレイニー「黒人の同胞諸君、奴隷制は終わった」 1865.7.23
 11 ヘンリー・マックニール・ターナー「肌が黒いというだけで現職議員の資格を剥奪できるのか」 1868.9.3

第10章 南北戦争階級闘争
 1 ニューヨーク小麦粉騒動、ある目撃者の証言 1837.2
 2 ヒントン・ローワン・ヘルパー『このままでは南部は破滅する』 1857
 3 “職人”「財産資格による投票は選挙権の剥奪だ」 1863.10.13
 4 ジョエル・タイラー・ヘッドリー『ニューヨーク大暴動』 1873
 5 南北戦争中の南部にあった不満について、文書四点(1864-1865年)
  (a)ジョージア州サバンナのパン暴動についての投書 1864.4
  (b)自称“兵役免除者”「行くべきか、行かざるべきか」 1864.6.28
  (c)O・G・G「兵士の妻がなぜトウモロコシ暴動か」 1865.2.17
  (d)『デイリー・サン』紙「この戦争で足蹴にされるのは誰か」 1865.2.17
 6 J・A・ダカス『一八七七年アメリカ大ストライキ』 1877

第11章 南北戦争後のうわべの繁栄、貧困化に反撃する民衆、そして人民党の結成
 1 ヘンリー・ジョージ「貧困という罪」 1885.4.1
 2 オーガスト・シュピーズ、ヘイマーケット事件の法廷陳述 1886.10.7
 3 「ティボドーの虐殺―冷酷に殺された黒人労働者たち」 1887.11.26
 4 アーネスト・リヨン師ほか「白人による恐怖支配に抗議する」 1888.8.22
 5 メアリー・エリザベス・リース、二つの演説(1890年頃)
  (a)「ウォール街がこの国を支配している」 1890頃
  (b)「『抵当物件の明け渡し』で月に五〇〇軒の家が奪われている」 1890
 6 アメリカ人民党のオマハ綱領 1892.7.4
 7 J・L・ムーア師「白人と手をつなぐ黒人農民同盟」 1891.3.7
 8 アイダ・B・ウェルズ=バーネット「リンチ法」 1893
 9 プルマン鉄道車輛会社のストライキ参加者による、声明文 1894.6.15
 10 エドワード・ベラミー『かえりみれば−二○○○年から一八八七年を』 1888

第12章 帝国の拡大は神から与えられた「明白なる使命」
 1 カリスト・ガルシア、ウィリアム・R・シャフタ将軍への手紙 1898.7.17
 2 アフリカ系アメリカ人による、反帝国主義の文書三編(1898-1899年)
  (a)ルイス・H・ダグラス「フィリピン侵略をめざすマッキンレー大統領へ」 1899.11.17
  (b)アフリカンメソジスト監督教会ジョージア州アトランタ伝道部「黒人は外国侵略の軍隊に入るべきではない」 1899.5.1
  (c)I・D・バーネットほか、マサチューセッツ州の黒人によるマッキンレー大統領への公開書簡 1899.10.3
 3 サミュエル・クレメンス(別名マーク・トウェイン)「モロ族虐殺にかんする論評」 1906.3.12
 4 スメドレー・D・バトラー『戦争はペテンだ』 1935

第13章 社会主義者と世界産業労働者組合(ウォブリーズ)
 1 マザー・ジョーンズ「炭鉱労働者の天使」 1903.3.24
 2 アプトン・シンクレア『ジャングル』 1906
 3 W・E・B・デュボイス『黒人の魂』 1906
 4 エマ・ゴールドマン愛国主義―自由への脅威」 1908
 5 「ローレンスの繊維工場労働者のストライキ宣言」 1912
 6 アートゥロウ・ジョバニッティ、陪審員への訴え 1912.11.23
 7 ウディ・ガスリー「ラドローの虐殺」 1946
 8 ジュリア・メイ・コートニ「ラドローを忘れるな」 1914.5
 9 ジョー・ヒル「俺の遺言」 1915.11.18

第14章 第一次世界大戦にたいする抵抗と反戦運動
 1 ヘレン・ケラー反戦ストライキ」 1916.1.5
 2 ジョン・リード「誰の戦争か」 1917春
 3 「IWWは、なぜアメリカに愛国主義的でないのか」 1918
 4 エマ・ゴールドマン、「良心的兵役拒否」裁判における最終陳述 1917.7.9
 5 ユージン・デブス、反戦演説二題(1918年)
  (a)オハイオ州カントンでの演説「宣戦布告は国民投票で」 1918.6.16
  (b)法廷陳述「下層階級が存在するかぎり私もその一員だ」 1918.9.8
 6 ランドルフ・ボーン「戦争は国家の健康法である」 1918
 7 e・e・カミングズ「僕はオラフを歌う 明るくでっかい奴」 1931
 8 ジョン・ドスパソス「一アメリカ人の身体」 1932
 9 ダルトン・トランボ『ジョニーは戦争に行った』 1939

第15章 ジャズ・エイジと一九三〇年代の民衆蜂起
 1 F・スコット・フィッツジェラルドジャズ・エイジの残響」 1931
 2 イップ・ハーバーグ「おい兄弟、恵んでくれよ、一〇セント」 1932
 3 ポール・Y・アンダーソン「催涙ガスと銃剣と投票」 1932.8.17
 4 メアリー・リクト「スコッツボロ事件の弁護活動を回想する」 1997.2.15
 5 ネッド・コブ(“ネイト・ショウ”)『神のすべての危険』 1969
 6 ビリー・ホリデイ「奇妙な果実」 1937
 7 ラングストン・ヒューズ、詩二編(1934年と1940年)
  (a)「ローズベルト小唄(バラード)」 1934
  (b)「大家さん小唄(バラード)」 1940
 8 バルトロメオ・バンゼッティ、法廷での最終陳述 1927.4.9
 9 ビッキー・スター(“ステラ・ノウビキ”)「組合ですら女は裏方」 1973
 10 シルビア・ウッズ「闘いなしに自由は得られない」 1973
 11 ローズ・チャーニン、一九三〇年代のブロンクスにおける立ち退き反対運動 1949
 12 ジェノラ(ジョンソン)ドリンジャー『GMフリント工場の占拠―座り込みストライキ(一九三六〜一九三七年)を振り返る』 1995.2
 13 ジョン・スタインベック怒りの葡萄』 1939
 14 ウディ・ガスリー「この国は俺たちの国」 1940.2

*1:ハワード・ジンhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%B3という歴史家については、Twitterで@amardayoさんに教えていただいた。こちらhttp://twilog.org/tweets.cgi?id=qua_gma&word=amardayoの2012年6月23日、8月16日、8月17日参照

*2:上下巻あわせて2万円近くする。http://www.akashi.co.jp/book/b102863.html http://www.akashi.co.jp/book/b102864.html このボリューム(上下巻あわせて1400ページ近く!)からすると、ペーパーバックとはいえ原書が2000円足らずで入手できるらしいhttp://www.amazon.co.jp/Voices-Peoples-History-United-States/dp/1583229167/ref=pd_sim_sbs_b_1というのも、それはそれで信じがたい。

*3:「幾世代ものアメリカ人が、教科書や学校や大衆文化から学んだ歴史のなかでも、クリストファ・コロンブスの話ほどひどく歪曲されたものはない。一般的なコロンブス像は、自分がいずれ見つけるものを知らずに大洋を突っきって進み、当時は未知であった大陸に偶然ぶつかった英雄的人物・冒険家・熟達した航海者、というものである。全くそのとおりであるが、その話にすっぽり抜け落ちている事柄がある。コロンブスバハマ諸島に上陸したとき、彼と部下の船員が、平和的で物惜しみしない島の先住民に歓迎されたにもかかわらず、黄金探しに熱中しはじめ、情け容赦なく先住民を奴隷化し、悲惨と死をもたらした、という事実である。コロンブスを遠征に駆りたて、上陸後そうした行動に突き動かしたのは、利益への飽くなき欲求にほかならなかった。」「そこで遭遇した先住民…を、彼は人間でないとみなし…、黄金の在処を吐けと拷問にかけた。彼は何百人もの先住民を拉致・誘拐して奴隷化し、全くひどい条件下の鉱山で強制労働させ、黄金を探させた。それがエスパニョーラ島…に住んでいたインディアンの絶滅の始まりだった。ヨーロッパ人による西半球征服の出発点だった。」(同書(以下略)p37-38)

*4:「理想化され美化されてきたコロンブス像が、近年、見直されはじめている。…すなわち、…黄金を手に入れるためにエスパニョーラ島の先住民を拉致し殺傷したひととして彼を扱う見方が出てきたのである。この新しい見方の根拠は、主に、コロンブスの同時代人であり、エスパニョーラ島の出来事を目撃した、バルトロメ・デ・ラス・カサスから来ている。」(p47)

*5:「バルトロメ・デ・ラス・カサスは、先住民インディオへの残虐行為を止めさせようと、スペイン国王を長く説得した。一五五○年、バリャドリード市で開催されたスペイン国王の審議会で、ラス・カサスと聖職者ファン・ヒネス・デ・セプルベダとの論争がおこなわれた。論争の中心問題は、インディオは人間だから人間として扱うに値するか、人間以下だから奴隷にするのがふさわしいか、という点にあった。」(p59)

*6:ウルグアイ人のジャーナリストで急進的な作家であるガレアーノは…多数の史料と想像力を駆使しながら、当時の人々の苦境を再構成し、コロンブスの多くの神話を覆している。」(p63)

*7:「一六一九年に最初の黒人が力づくで運びこまれたのは、バージニア州ジェームズタウンの白人入植地で働かせるためだった。…当時、バージニア入植者は食糧生産のための労働力を求めていた。というのは、一六○九年から一○年の冬、入植地バージニアは飢餓のため人口が激減し、五○○人のうち六○人しか生き残らなかったからだ。…アフリカで拉致されて故郷からはるばる運びこまれた、寄る辺ない黒人なら使えるだろう、と入植者は思った。…最初の黒人二○人が、西インド諸島から鎖につながれて、ジェームズタウンへと運ばれた。」(p74)

*8:「奴隷はこのような運命を甘受しなかった。次の三通の手紙が示すように、肉体的反乱をふくむ多くの方法で抵抗した。」(p74)

*9:奴隷制反対の史料は、奴隷が奴隷的身分からの解放を求めて州議会に提出したさまざまな請願書のなかに、さらに多く見出すことができる。」(p78)

*10:「ベンジャミン・バネカーは解放奴隷の息子であった。彼は数学と天文学を自学し、日蝕を予言し、新首都ワシントンの都市計画立案者に任命された。そして…トーマス・ジェファソンに手紙を書き、奴隷制終結を求めた。」(p87)

*11:「イギリスや北ヨーロッパ諸国では、貧乏人の絶望が、商人や船主にとっては莫大な利益となった。商人や船主が手筈を整え、男や女を奉公人として働かせようと、アメリカへ輸送したのである。運ばれた人々は年季奉公人と呼ばれ、五年から七年分の給料を渡航費の支払いに当てねばならなかった。アフリカからの黒人奴隷と同様、船にできるだけ大勢が詰めこまれ、幾月も船旅を続けた。大勢が船内で病気にかかって死んだ。とくに子どもが多く死んだ。生き延びてアメリカに上陸すると、奴隷と同様に売買された。その時点から、彼らの生活は主人によって完全に支配された。女性は性的虐待をうけ、男性は命令に従わないからといって殴られ鞭で打たれた。年季奉公制は一七世紀から一八世紀を通じて続き、年季を終えて自由になった人々が、植民地の労働者階級の大部分を占めるまでになった。」(p94)

*12:年季奉公人リチャード・フレソーンがジェームズタウン入植地にやってき」て、「まもなく自ら体験した災難について、両親あてに手紙を書いた。」(p94)

*13:「一六七六年、バージニア植民地でナサニエル・ベーコン率いる白人開拓民・奴隷・年季奉公人の反乱がおこった。…反乱はきわめて危機的様相を呈し、植民地総督は、燃え上がるジェームズタウンから逃げ出さねばならなかった。…雑多な集まりからなる反乱軍の不満要因はさまざまであった。入植者は、インディアンの攻撃から自分たちが十分に保護されていないと感じていた。奴隷と年季奉公人は、バージニアの政治指導者と自分たちの主人から、ひどく抑圧されていると感じていた。」(p98)

*14:「植民地住民の生活状態は、一般に貧しいままで絶望的だった。一方で住民は、少数者の巨大な土地所有と富の蓄積を目の当たりにしていた。…ニューハンプシャー植民地の貧しい民衆は、燃料が必要となり、富裕者の土地の木を伐採した。イギリス王領の森林地監督官…は、地方の町の住民が伐採犯罪者の発見に協力してくれないことに気づいた。彼は手兵を少人数あつむたが、一七三四年にエクセタの町に到着したとき、その手兵は地方住民の集まりに攻撃されて打ちのめされた。」(p103)

*15:アメリカ独立革命前の二、三○年間、植民地じゅうで強制徴用に反対する暴動が増加した。イギリス海軍が、水兵補充のために、植民地の若者を徴用したからだ。…この海軍提督ノールズに対する暴動は、独立革命前のこの種の事件のなかで初期のものである」(p104)

*16:「ゴットリーブ・ミッテルベルガーは、一八世紀中葉に書いた以下の文章で、年季奉公人の窮状を詳細に描いている。」(p110)

*17:「ニューヨーク植民地では、イギリス国王が土地の莫大な区画を、オランダ人のバンレンセラー家に下付した。借地農は封建的所領の農奴のように扱われた。バンレンセラーが領有権を主張した土地は、貧しい農民が占有していたものだった。土地はインディアンから買ったものだ、と農民は主張した。その結果、バンレンセラーの手兵と地元農民のあいだで、次々と衝突がおこった。」(p116)

*18:「一七六○年には、各邦の植民地政府の転覆をねらった暴動が一八件おきた。…そのような反抗的エネルギーは、すぐにイギリスへの反抗へと方向転換が謀られはじめた。植民地有力者が、イギリス支配からの解放を好都合だと考えたからだった。…仏英が戦った七年戦争は、一七六三年にフランスが敗北して終結し[たが、]戦費を賄う金が必要となり、イギリスはそれを植民地に期待した。…[一方で]フランスという邪魔者がいなくなると、植民地指導層はイギリスの保護を必要としなくなった。…こうして対立の要因がいくつも生じた。」(p120)

*19:「イギリスへの怒りは、印紙税法という課税への反対運動となって、露骨に表明された。[結局]さまざまな暴力的反応が、イギリス議会に同法を撤回させる、という結果をもたらした。」(p120)

*20:「一七七○年のボストン虐殺事件の背景には、イギリス軍のボストン駐留にたいする強い反発があった。この事件そのものは、イギリス軍兵士によって仕事を奪われた縄製造職人の怒りから始まった。イギリス軍兵士が、集まった群集に発砲し、民衆五人を殺した。」(p124)

*21:「フランスとの七年戦争で負債を抱えるようになったイギリスは、北米植民地に高額の茶税を課した。…この課税はひどく不人気となり、植民地が「代表なき課税」に従わされているという事実を象徴するものとなった。国王が土地の莫大な区画を…独立を主張する多くの人々は、イギリス茶の不買運動を大声で叫びはじめた。一七七三年末、茶を積んだイギリス船が多数ボストン港に向かっていた。…サミュエル・アダムズは、船団のうち三隻を洋上に追い返したが、マサチューセッツ植民地総督は船団の入港を許可し、船荷に関税を支払うべしと主張した。…一二月一六日、先住アメリカ人に変装した群集が、船団を襲撃し、積荷を海に投げこんだ。」(p127)

*22:「トーマス・ジェファソンの独立宣言に先立って、少なくとも九○を数える邦[訳注:のちの州]と地方の、さまざまなかたちの独立宣言があった。…ニューヨークの職工会館で職工たちが署名した独立宣言は、そのすばらしい実例のひとつである。」(p131)

「おまわりさんは何をやっているの?」は何を書かないか

前回の記事*1に対し、わりとすぐに『デモいこ!』編集の野間易通氏(@kdxn)から応答(罵倒込み)があった*2
いろいろ言ってるが、ここでは、当該コラムは「警察の本質」につききちんと言及しているとの反論に対し、当該コラムを引用しつつ再反論したい。
 
じゃあさっそく、当該コラム(執筆したのは野間氏自身であるとは、ご本人の弁。)を実際に見てみましょうか。
 
まず、ガラケーでコラムの掲載されたページを撮影した画像があるので、ごらんいただきたい(サイズが小さいので分かりにくいかもしれないが)。
http://twitpic.com/aduahy
コラムを囲む意匠に注目。"POLICE"という字とか、パトカー、警察犬、警察官のかぶる帽子、警察のマスコット「ピーポ君」、警察手帳、などがイラスト化された意匠になってるのがお分かりいただけるだろうか。はっきり言ってカワイイ。
デモに対し規制を加えてくる権力そのものである警察を扱うのに、こんなカワイイ意匠で囲むといったあたり、既にしてあるメッセージを受け取らないわけにはいかない。
「警察、こわくないよ!」
……警察のPRかよ!

次に、文章の内容を見る。

ふだんデモに参加しないとあまり気づかないことですが、デモには一般参加者だけでなく、警察官がたくさん来ています。デモ隊を先導しているのも、多くの場合は警察車両です。この警察官はなんのためにいるのでしょうか。

ここまで第一段落。ふむ。
問題は次の第二段落。

デモに来ているおもな警察官は、地元を管轄する警察署の人たちです。彼らの第一の仕事は、交通整理とデモ隊の誘導です。デモはふつう車道の左側の車線を通行するために、あらかじめ先回りして車道を空けておき、集団がスムーズに道路を進行できるように交通を整理します。デモは車と同じく交通信号にしたがって進みますが、数百人規模以上のデモの場合、警察官が手動で信号を操作しデモが通過するまで信号を青に保ってくれることもあります。また、片側2車線以上ある広い道路では、右車線側についた警察官が、デモ隊が車線をはみださないように整理誘導しています。あらかじめ車線上にカラーコーンを置いて、デモ通過前に車両が進入しないような措置を講じることもあります。

外形的には、ごくニュートラルな、「所轄が街頭デモでどのように振る舞うか」についての客観的な記述のようである。書いてあることの中に、虚偽があるわけでもない(たぶん)。言い落とし(おそらく故意の)はあるけど。
 
私が「まるで警察がデモの円滑な実行のため親切にも協力してくれてるような書きぶり」と書いたのはこの部分を念頭に置いていた。
どうでしょう、この文章。あたかも、デモがスムーズに成し遂げられるため、「警察署の人たち」がコマネズミみたいにかいがいしく立ち働いてくれている*3、読み手にそういう印象を持たせるように巧妙に書かれていると思いませんか。
もしかしたら現実にそのように見えてしまう局面はあるのかもしれない。その意味で、この文章はウソを言ってるのではない。しかし、それは仮の見かけに過ぎない。警察という組織は、デモが交通その他の秩序を決して乱すことがないよう、かいがいしく立ち働いているのであって、デモ(に参加する人たち)が十全に権利行使できるようがんばっているのでは、ない。
 
この文章が(おそらく故意に)言い落としている部分も、その点にかかわっている。
ひとたび、「デモという権利行使」と「秩序を乱すことのない円滑なデモの遂行」という両者の目的が現実に衝突をきたす局面*4に至るやいなや*5、警察はすぐにでもデモを管理しようと介入してくる。この文章は、こうしたことに、まったく言及しない。
よく知っているわけではないが、多くのデモではそうした事態は出来せず、「無事」に終わるのかもしれない。しかしそれはたまたまそうであったというだけのことだ。本質的にデモと警察は相反する目的のもとに動いている(仮にデモ参加者がそのことをまったく意識していないとしても、そうなのである)のであり、多くの場合対立が表面化しないのだとしても、それはまさに表面だけのことに過ぎない。
 
「まるで警察がデモの円滑な実行のため親切にも協力してくれてるような書きぶりになっている」と私は書いたが、ここまで読む限り、その印象を撤回する必要を認めない。
 

では、いよいよ野間氏が「警察の本質」につき言及している、と主張する第三段落*6である。

制服警官のほかに、私服姿の刑事が何人か来ている場合もあります。こうした刑事はデモ隊の写真を撮ったりビデオを撮影したりしていますが、これは治安対策のための情報収集です。犯罪を犯そうとしているわけでもない一般人の写真や映像を警察が無断で収集することは、憲法13条に反した肖像権侵害であるとの見方*7もあります。

なるほど、確かに、「私服姿の刑事」が「治安対策のための情報収集」をしている、との記述は「警察の本質」に言及したものと言えよう。
しかし、こうした記述があるからといって、前段落のごまかしめいた記述が帳消しになるものではない。この文章は、前段落における言い落としをカバーするようなものには、なっていないからだ。ミソは、「制服警官」と「私服姿の刑事」を切り離して扱い、しかも「私服姿の刑事」の任務が単に「情報収集」に過ぎないという点にある。先に述べたとおり、警察がデモに対して行う権力行使は情報収集に留まるものではない。よって、情報収集に言及したからといって、前述のような言い落としをカバーすることにはならない。
そもそも、私が指摘したのは「デモを管理し…そのポテンシャルを削りたい」という警察の本質に「この本の書き手は、できるだけ…触れないようにしている」ということであった。「私服姿の刑事」による「治安対策のための情報収集」に言及している、という野間氏の抗弁は、私の指摘に対する反論になっていないのである。
結論。ここに至っても、「まるで警察がデモの円滑な実行のため親切にも協力してくれてるような書きぶりになっている」との記述を撤回する必要を、私は認め得ない。
 

ところで、

以上とは別に、この段落の記述には、気になる点がある。初めに読んだときから既に引っ掛かっていたのだが、言うのを忘れていた。この際指摘しておきたい。
すなわち、京都府学連事件判決に触れつつ「犯罪を犯そうとしているわけでもない一般人の写真や映像を警察が無断で収集することは、憲法13条に反した肖像権侵害であるとの見方もあります。」とは、ずいぶん腰が引けた物言いに思える、という点である。
著名な判例である同判決は、まさに上記のような撮影行為は、相当に限定されたケースを除いては憲法13条の「趣旨に反し、許されない」と言ってる*8のだから、普通にその通りに書けばいいと思うのだ。
それを、あえて「との見方もあります。」と書くというのは、一体どういう力が野間氏のペンを持つ手(もしくはキーボードを叩く手)に作用したのだろうか、と訝しく思わざるを得ない。

*1:正確には転載元のツイッターのポスト

*2:http://twilog.org/qua_gma/date-120731の01:22:01以降参照。

*3:「信号を青に保ってくれる」という記述を見落とすべきではない

*4:たとえば、車道や歩道に広がろうとする、スケジュールどおりに行進せず一箇所に滞留する、など

*5:本質的には、両者は最初から相反するものであることは言うまでもない。デモは既存の秩序に亀裂を入れることにこそその本領の少なくとも一部分があるのだから。

*6:はじめ野間氏は4段落目、と言っていたが、実際には3段落目であった

*7:脚注「京都府学連事件判決(最高裁 昭和44年12月24日)」とある

*8:どのような場合に撮影が許されると同判決が言っているのかについては、ぜひ実際に京都府学連事件判決http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=51765&hanreiKbn=02を見て確認していただきたい

TwitNoNukes編著『デモいこ!』批判

ツイッターにポストしたものを以下そのまま再構成*1(文章にはけっこう手を入れたが、文意は変えていない)。

『デモいこ! 声をあげれば世界が変わる 街を歩けば社会が見える』*2を読んだ。
版元が同じ河出書房新社ということもあってか、『さようなら、もんじゅ高速増殖炉がかたる原発のホントのおはなし』*3と印象が似ている。ちなみに奥付に「編集」として野間易通氏*4がクレジットされている。
 
印象が似ているというのは、おおむね以下のような点においてである。
知らない人向けの手に取りやすく分かりやすい入門書となることを意図して作られたと思われること。
そのことにかなり成功していると見えること。
装丁やレイアウトがオシャレでカワイくライトな見た目・手触りであること。
そして、おそらく意図的に「政治的」な(≒ダサくクラい)ものを極力排除した作りになっていること。
もちろん、『もんじゅ君』にせよ本書にせよ、題材そのものは高度に政治的なものである。しかし両書において、一貫して政治的な題材からダサくクラい感じを巧妙に排除しているように見える。
 
本書は、『もんじゅ君』と同様、デモ初心者に手っ取り早くノウハウを伝える、手に取りやすい本である(その点かなりよくやっている*5)。
しかし、私にはなんだかかなり胡散臭く感じられてしまう。この点においても、『もんじゅ君』と本書は似たところがある。
 

胡散臭いところ、その一。

警察との関係についてのコラム記事が二ヶ所ある。25ページの「おまわりさんは何をやっているの?」と46ページの「公安条例と許可条件」である。ここ、明らかににごまかしがある。前者のコラムが、まるで警察がデモの円滑な実行のため親切にも協力してくれてるような書きぶりになっている。
しかし実際には全然そうじゃないことは、まあ説明不要だと思う。デモを管理したいし、できるだけそのポテンシャルを削りたい。本質的に警察はそういう存在だし、実際にデモに行けばわりとあからさまにそのことは理解できる。この本の書き手は、できるだけそのことに触れないようにしている。
まあ、ありていに言って、妥協的。そこが『もんじゅ君』とよく似てる。入門書として作られてることはこういう妥協の言い訳にならないと思うし、第一読者をバカにしている(バカにしてるんでなく本気でこのように考えてるのだとしたら、それはそれでやばい)。
 

胡散臭いところ、その二。

実はもう一点問題だと思うところがある。個人的にはこちらのほうがムカついた。
「2.デモへいこう!」という章のなかで、「キレイな格好で!」と小見出しがある。ここで、決まった服装はないがスニーカーが楽かも、と書いた後で以下のように続く。

しかし、それよりも大事なのは、ちゃんとおしゃれをしていくということです。デモは、人前に出ることだというのを忘れないようにしましょう。

うるせえ!余計なお世話だよ!
ってだけじゃなく、これ、排除につながりかねぬ発想だと思う、大げさでなく。例えば身なりに構えないホームレスなど最初から考慮の外ってことでしょ。デモいこ!て本がこれでいいのか!?

こういう傾向って、官邸前抗議行動とやらの「警察と仲良く」「ふつうの国民」指向とまことに底を通じたものであるよなあ、と思います。よく知らないのだけど、TwitNoNukesという団体(?)って「官邸前」の主催者に連なってるんでしたっけ?

*1:http://twilog.org/qua_gma/date-120730の16:57:20から17:41:25までのポスト参照

*2:TwitNoNukes編著、河出書房新社、初版印刷2011年12月20日

*3:前記事参照。著 もんじゅ君 監修 小林圭二、河出書房新社、初版印刷2012年3月11日

*4:ツイッターアカウント@kdxn

*5:もっとも、こんな意見https://twitter.com/ShiraishiM1970/status/230056119681286145もある。ごもっとも。

『さようなら、もんじゅ君』感想

ツイッターにポストしたものを以下そのまま再構成*1(文章にはけっこう手を入れた)。
 
『さようなら、もんじゅ高速増殖炉がかたる原発のホントのおはなし』*2読了。原発をめぐる問題を手っ取り早く知るにはいい本なのかな、と思った(個人的にはこの本から新しい知見を得たということはなかったけど)。
何といっても早く読めて*3、大まかに問題の全体像を理解できる、というのはいい。特に95年のナトリウム漏れ事故を語るあたり、適宜「もんじゅ君の感じたこと」を挟むことで経緯と問題点が理解しやすく書かれていて、この語り口がうまくいってるところだと思う。
一方で「高速増殖炉のしくみ」を説明するあたりなどは、もんじゅ君の一人称の語りの限界というか、はっきり言ってあんまりうまく説明できてない感じ(類書と比べても分かりにくい)。「熱中性子くん」とか、なんだそれって思ったし…まあでもこの辺はそんなに大きい瑕疵ではないかな。
より問題だと思うのは、この本が、原発をめぐる問題のなかでも特に暗い部分について触れることを、(たぶんわざと)オミットしてるところ。例えば原発での労働における被爆にはほんのちょっと触れてるけど、そこにおける差別や権力的な構造の問題については全く書いてない。
同じく、電源三法には触れていても、その前提としてある(そして原発によりさらに強化されることになる)都市部と地方の構造的な格差の問題にもほとんど触れていない。原発誘致の足下で行われてきた権力によるなりふりかまわぬやり口にも全く触れない。
好意的に見れば「入り口」としての役割に徹し、敢えて重い部分に触れるのは避けたのかもしれない。語り口にもそぐわないし。
しかし、結局そういう考えはダメだと思うし、語り口の選択にも失敗したということだと思う。
個人的に決定的だと感じられたのは、巻末の参考文献の選択である。
なぜ、例えば鎌田慧の本が一冊も挙げられてないのか。読んでないが、宇野常寛『リトル・ピープルの時代』東野圭吾『天空の蜂』川上弘美『神様2011』とかって、鎌田『六ヶ所村の記録』を差し置いても入れなきゃならん本なのだろうか。

*1:http://twilog.org/qua_gma/date-120729の16:57:20から17:41:25までのポスト参照

*2:もんじゅ君 監修 小林圭二、河出書房新社、初版印刷2012年3月11日

*3:私は2時間ほどで読めた

漱石の「満韓ところどころ」

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20110216/p1
matsuiismさんが、このエントリーで高澤秀次『文学者たちの大逆事件韓国併合』を引用しつつ漱石の「満韓ところどころ」にも触れている。私も前回のエントリーの注でこの紀行文に言及したのだけれど、高澤氏によれば、

そもそもこの旅自体、「満鉄(一九〇六年設立)総裁の地位にあった中村是公後藤新平の後継者)の慫慂(しょうよう)で実現した旅」であり、「日本の国民作家」を「満鉄をはじめ、アジアに進出する大日本帝国の各出先機関」で歓待する、つまりこの国家的事業に「国民作家」を動員し、そのお墨付きを得ようという性格のものだった。

ということだったらしい。これは知らなかった。高澤氏の本に興味を覚えたので、いずれ機会があれば読んでみたい。
「満韓ところどころ」は、たしか岩波・新潮・角川の各文庫版のいずれにも収録されておらず*1、私がこの文章を読んだのも、図書館から全集か何かを借りてくるかしたのだったと思う。なので、手元になく、今内容を確認するすべがないのだが、記憶にある限りでは、この紀行文は何よりも「詰まらない」ものだった。漱石をこの旅に半ば無理やり(そのように書いてあったように記憶する)連れ出した張本人であり、漱石の帝大時代の同級生でもある当時の満鉄総裁・中村是公をはじめとした現地の名士たちとの交遊録が延々と続くばかりで、肝心の「土地」に関する記述がほとんどないのである。あっても、

露助(ろすけ)」、「チャン」、「汚(きた)ない支那人」、「如何にも汚ない国民」といった差別的表現

が頻出し、読むに耐えないものだった。漱石はこの文章をものするのに得意の戯文調を選択したのだが、体調が悪かった*2ことも影響しているのか、いかにも精彩を欠いていた。そういえば、およそ漱石の作品において、中国や朝鮮といった「大陸」は、漱石的登場人物(その多くは「高等遊民」である)の生活にとっての外部であり、わけのわからないもの・都合のわるいもの*3を放り込むブラックボックスとして機能していたのだった。
ところで、これもmatsuiismさんのエントリーを読んで初めて知ったのだが、この旅において漱石が日本軍に虐殺された閔妃の墓を訪問していた、という事実が朝日新聞により報道されていた*4らしい。この記事は韓国における漱石研究者の第一人者である尹相仁・漢陽大学(ソウル)教授の言葉を紹介している。尹教授は、

満韓旅行で漱石は、満鉄や朝鮮統監府の日本人ばかりと会って、中国人、朝鮮人は見ていなかった。閔妃墓訪問の前日に景福宮などを見物しており、宮殿を見たから次は墓を、というほどの意識で行ったのだろう

というごくもっともな言葉とともに、

書かれなかった『満韓ところどころ』の韓国編を、あの戯文体で書きついでみたい

とも言っていて、これはとても読んでみたい。
 
[2月19日追記]ブコメid:EoH-GSさんにご指摘いただいたが、「満韓ところどころ」は青空文庫に収められているらしい。ご教示感謝します。なお、冒頭の部分を読んでみたところ、中村是公漱石を旅に「半ば無理やり」連れ出したというのは記憶違いであったことがわかったので、訂正した。

*1:このこと自体、このテクストの置かれた「位置」を現しているように思われる。今となっては、「国民作家」がこのような文章を書いたということは、たいへん「ばつのわるい」または「都合のわるい」事実なのだろう。

*2:漱石胃潰瘍で倒れるのはこの旅行の翌年・1910年(明治43年)のことである。この年は、韓国併合大逆事件の年でもあった。

*3:例として『明暗』に登場する社会主義者・小林

*4:http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201008140129.html

差別と法について、思ったこと

先日のエントリー(日の丸と燃える十字架 - 小熊座)に、id:takammさんからコメントをいただいた。これに対する二度目のレスを書いているうちに非常に長くなってしまったので、ひとつのエントリーとしてアップすることにした。以下がその内容である。
 
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先日も書いたように、私はここのところヘイトスピーチ規制に関連する本や論文を読んでいるわけですが、そうしているうちにいくつか思うところも出てきました。無学非才の身ゆえ、生煮えな考えですが、この機会に書き留めておくことは私にとって無意味ではないように思えます。しばしお付き合いいただけたら幸いです。
 
まず第一点。
アメリカ合衆国判例が、ヘイトスピーチですら言論の自由により保障される、としていることは、このブログでも何度か書きました*1。当然ながらこのことは、合衆国法がそれだけ「言論の自由」を重んじている、ということを意味しています。が、もう一方で、この事実は、このような判例法理が形成されるほど、アメリカ社会がこれまで何度も人種差別的な言論や行為を禁止し処罰する法を制定してきた、ということの結果でもあります。もちろんこれは羨むようなことではありません。それだけアメリカ社会では人種差別という社会現象の害悪が熾烈だ、ということだからです*2
もっとも、翻ってそのような法が制定された経験を全く持たない日本社会がハッピーな社会か、というと、これまた全くそうとは言えないでしょう。確かに最近まで*3、日本社会において人種差別が深刻な社会問題として意識されたことはありませんでした*4
しかし、それは最近まで問題がなかったということでは断じてないし、必ずしも問題が「小さかった」ということを意味するとも思えません。実際には、在日朝鮮人アイヌ・沖縄出身者などをはじめとした人種的少数者に対する差別や弾圧は、ずっと行われてきたわけです。恥ずかしいことに私も最近までこのことをほとんど「知らなかった」。いや、むしろ「意識してこなかった」というべきでしょうが、そのこと自体、日本における差別のありようの顕著な特徴をなしていると考えられます。つまり、日本国家および社会は、人種差別の問題を「(ほとんど)ない」ことにしてやり過ごすことを選んできた、ということです*5。今、このことは何度強調されてもされすぎということはないように思います*6
政府や地方自治体による差別的政策(最近では朝鮮学校に対する授業料無償化の見送り)や、それらにおいて重要な地位にある者によるレイシズム丸出しの「失言」といった事件に対する、この社会のほとんど恐怖を覚えるほどの冷淡・鈍感・無関心(いや、正確には無言の共感、と捉えるべきか)は、その端的な現れ、と見るべきです。これも強調されるべきですが、この問題に関して日本国家と社会は(明治以来)強い共犯関係にあります。この社会において、ヘイトスピーチ規制立法を単純に「国民の自由に対する侵害」とのみ考えるべきではないと思うのは、こういう事情があるからです。差別に反対するということは、国家と手を取り合って差別を行う社会(国民)に反対する、ということにならざるを得ません*7
それにしても、「差別がない(ということにする)」という差別!なんという無知に居直った傲慢で嫌らしい連中でしょう…私もその「連中」の一人なわけですが。
ともあれ、憲法的問題は別にして、これまで差別的表現・行為に対する法的規制を持たなかったという事実は、日本にとって誇れるようなことでもなんでもない、と思います。
 
第二点。
各国で定められてきた*8差別的表現・行為を禁止・処罰する法の多くが、そのような表現・行為が社会に憎悪を掻き立てるがゆえに公の秩序を乱すということを規制の根拠としていることには、注意する必要があると思います。
つまり、これらの差別規制法は、必ずしも第一義的には、被害者(差別された個人や集団)の人権や人格権の保護を目的としているのではなかったようなのです。この意味するところは、私にも十分に捉え切れていません。人権や人格権といったものが立法の際に重視される要素とされるようになったのは、そんなに古いことではない(もしかしたら今でもそうなってはいない?)、ということなのでしょうか。あるいはもしかしたら、「集団的人権」といった問題とも絡んでくるのかもしれません*9
ひとつ言えそうなのは、このような観点からは人種差別撤廃条約をはじめとした国際人権法が非常に重要だろう、ということです。
 
第三点。
とはいえやはり、差別的表現・行為に対する法的規制が直ちに差別という社会的病理を治癒したりはしないだろう、と考えざるを得ません。法律というのはとても大きな影響を及ぼすものですが、にもかかわらず、それにできることは非常に限られています。もっとも、だからといって法的規制を無意味だと考えているわけでもありません。ヘイトスピーチに対する法的規制の可否という問題は、差別なる社会的現象に対して採られるべき対応の、一部をなすと考えるべきでしょう*10
「差別なる社会的現象に対して採られるべき対応」とは、何とも抽象的な物言いですが、たとえば、このブログでも何度か言及した*11「黒い彗星」こと崔檀悦(チェ・ダンヨル)氏の行為はそうした「対応」の一つではないでしょうか。あのような勇気ある行動は、誰にでもできることではないでしょう。しかし、あの行動の形でなされた呼びかけに呼応すること、彼が孤立しているのではないことを示すこと、自分の置かれた社会的文脈で「黒い彗星」たらんとすること、これらも「対応」でしょう。私がこうしたことを書くのも微弱ながら「対応」のつもりです。
こうした「対応」一つ一つは、いわゆる「対抗言論(more speech)」と呼ばれるものといっていいと思います。こうしたもののほかにも、第二点として述べた国際人権法と連動していくこと、反差別的観点からの教育(必ずしも児童に対する教育に限られません)など、「採られるべき対応」は多々あると思われます*12。これらは広い意味で「対抗言論」に含まれるかもしれません。では、こうした「対抗言論」を飽かずに繰り返していれば、やがて差別的な表現・行為を圧倒して社会から駆逐するか、と言われれば、なんだかそれも楽観的に過ぎるのでは、とも思わざるを得ません*13
おそらく多くの人がそう考えているでしょうが、やはり、差別に反対して「採られるべき対応」が実際に力強いものとなるには、社会運動の存在が不可欠なのではないでしょうか。差別的表現・行為に対する法的規制の実現も、その一環として考えられるべきでしょう*14。ひとこと付け加えておけば、そのような運動に加わることのみが「差別なる社会的現象に対して採るべき対応」ではないのはもちろんです。 
 
第四点。
上に書いたことからもわかりますが、ヘイトスピーチ規制というのは比較的小さな限られた領域でのお話です。しかし一方で、ほかの多くの問題(その一部は非常に大きなもの)ともつながっていることも、ぼんやりと感じます。たとえば、この問題は、「表現の自由」を中心とした人権概念の体系に対する大きな挑戦となっているのではないか、と思っています。
ほかにもいくつか気になりだしたことはあるのですが、「ぼんやりと感じ」る程度のことをあまり書き連ねるのはよしたほうがいいかもしれません*15。今回はここまでにしておこうと思います。

*1:http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101211/p1 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101216/p1 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101225/p1 なお、http://d.hatena.ne.jp/quagma/20110128/p1 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20030407/p1も参照のこと。

*2:http://d.hatena.ne.jp/quagma/20110128/p1およびhttp://d.hatena.ne.jp/quagma/20030407/p1参照。

*3:この「最近」とは、「安価な労働力として多くの外国人を受け入れるようになってから」および「中・朝・韓の近隣諸国に対する敵意がことさらに煽られるという風潮が強まるようになってから」という、最低でも二つの意味があると思われます。

*4:部落差別は数少ない例外といっていいかもしれませんが、それすら十分に受け止めてこられなかったのでは、と思えます。

*5:なぜそれが可能だったのか、というのは一つの問題です。また、この前書いた「私たちはいまだに明治を超えられていない」(より正確に「明治を超えようとすらしていない」と言い直すべきかもしれません)という言葉の意味は、一つにはこの「差別にたいする徹底的な無視はなぜ可能なのか」という問題にかかわっていると考えています。明治というのは要は戦前・戦中的体制ということなので、つまりは天皇制とも無関係ではありえません。

*6:そういえば突然思い出したのですが、夏目漱石の文章に「満韓ところどころ」というのがあります。この、今から100年前、1909年という時点における「国民作家」の作品におけるあからさまな差別的視線は、まったく過去のものとなっていません。もちろんこれは悪い意味でそうなのです。

*7:この点について、こちら(http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110125/1295975896)における米津篤八氏(id:mujige)が「黒い彗星」暴行事件に寄せて述べた「今回の事態は日本の国家政策の一つの小さな反映に過ぎない」「在特会が馬鹿だといって笑って済まされる話ではなく…私たち日本人は明らかに在特会の立場に立っている」という認識、およびArisan氏のブログエントリー(http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20110208/p1)における「民主主義の政治が、差別的でもある多数者の欲望の充足ということしか意味しない社会だ」という認識には、肯かずにはいられません。

*8:内野正幸『差別的表現』有斐閣(1990)は、合衆国、英国、カナダその他の英米法系諸国、およびフランス、(西)ドイツなどの例を挙げています。35−74ページ

*9:swan_slab氏のhttp://d.hatena.ne.jp/mescalito/20080606/p1 は勉強になりました。また、正直に言えば嫌な感じのする文章ですが、弁護士の山口貴士氏によるhttp://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2011/01/post-60e9.htmlも挙げておきます。

*10:どの程度の重要性をもった「一部」なのかは、今の私にはにわかには判断しかねますが。また、「規制」立法のみがありうる反差別法ではないことも指摘する必要があるでしょうか。

*11:http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101211/p1 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101216/p1

*12:ヘイトスピーチに対しどのように法的に対応すべきかについては、合衆国に「critical race theory(批判的人種理論)」という学説があるようです。これについては桧垣伸次「ヘイト・スピーチ規制と批判的人種理論」(http://ci.nii.ac.jp/naid/120002635205 pdfで閲覧可)がやや詳しく紹介しています。もっとも残念なことに、批判的人種理論を説く論文には、現時点でほとんど邦訳がないようです。

*13:もっとも、「社会的病理」「社会的現象」といった言葉を用いていることからも明らかなように、私は「差別するのが人間の本性だ」といった粗雑な認識に与するつもりはありません。このような言明は最悪の現状追認以外の何ものでもなく、また、事実としても確実にひどく間違っている、と考えます。

*14:地道な社会運動とは異なったルートで立法が成立することは十分に(もしかしたら運動の結実としての成立よりもずっと高い可能性で)ありえますが、その場合も社会運動の側からそうした立法を捉え返す(場合によっては反対する)ことは必要でしょう。

*15:それでもひとつだけ書くと、ややオタクっぽい話になりますが、上で触れた国際人権法と(各国の)憲法との間にある緊張関係をどう考えればよいのか、両者における「人権」概念にはズレがあるのではないか、ということが非常に気になります。