連邦最高裁判決 ヴァージニア州対ブラック、その他 538 U.S. 343 (2003)

十字架を燃やす行為を犯罪として処罰するヴァージニア州法の合憲性が問題となったVirginia v. Black 538 U.S. 343 (2003)の一部を訳出したものである。本エントリの日付は同判決の日付にならった。
同判決の法廷意見(O'Connor判事)は、事案の概要を説明する第一章、十字架焼却の歴史を説明する第二章、ヴァージニア州法18.2-423の合憲性を具体的に判断する第三章(前段、合憲)および第四章(後段、違憲)、結論を短く述べる第五章から構成される。第四章・第五章に関しては、第三章まで同意した判事のうち一人が同調しなかったので、法廷の過半数を形成できず、相対多数意見となった。
2011年1月28日現在、第一章のごく簡単な要約と、第二章および第五章の全訳を掲載する。
原文中、参照文献を指示しているところが多く、やや煩わしいため訳文から除いた(判例への言及を除く)。興味のある方は原文で確認していただきたい。また、読みやすくするため一部原文にない改行をほどこした。
 

第一章(事案の概要)のごく簡単な要約

ヴァージニア州法18.2-423

It shall be unlawful for any person or persons, with the intent of intimidating any person or group of persons, to burn, or cause to be burned, a cross on the property of another, a highway or other public place. Any person who shall violate any provision of this section shall be guilty of a Class 6 felony.
個人あるいは集団を威嚇する意図で、他人の所有地、ハイウェイ、その他の公共の場において十字架を燃やすまたは燃やさせることは、いかなる者または団体においても違法である。本節のいかなる条項であれ違反した者は、第6級の重罪犯とする。(前段)
Any such burning of a cross shall be prima facie evidence of an intent to intimidate a person or group of persons.
そのような十字架を燃やす行為は、個人あるいは集団を威嚇する意図の一応の証拠(prima facie evidence)*1となる。(後段)

第一事件(ElliottおよびO'Mara事件 )

1998年5月2日夜ヴァージニアビーチにて、白人男性ElliottおよびO'Maraはほか一名とともに、Elliottの隣に転居してきたアフリカ系アメリカ人Jubileeの家の庭にトラックで侵入し、十字架を立て、これに点火した。JubileeはElliottが裏庭を射撃場として発砲していたことに対しElliottの母に苦情を述べたことがあり、これに対する仕返しがその動機であるとされる。ElliottおよびO'Maraはいずれもクー・クルックス・クランに加入していない。
ElliottおよびO'Maraは起訴され、第一審、控訴審ともに両者を有罪とした。二人は当該州法は言論の自由を保障する合衆国憲法第1修正に違反するとして、ヴァージニア州最高裁に上訴。

第二事件(Black事件)

1998年8月22日キャロル郡にて、Barry Blackは25人から30人の参加するクー・クルックス・クランの集会を開催した。集会は州道に面した空き地(私有地)で、所有者の許可を得て行われた(土地所有者自身、集会に参加していた)。人種差別的な内容の演説の後、集会の締めくくりとして、25から30フィート高の十字架が立てられ、点火された。その間、スピーカーで『アメイジング・グレイス*2が流されていたという。
Blackは起訴され、第一審、控訴審ともに有罪。Blackはヴァージニア州最高裁に上訴。

ヴァージニア州最高裁

ヴァージニア州最高裁は両事件を併合して審理した。
判決は、連邦最高裁のR.A.V. v. St.Paul 505 U.S. 377 (1992)判決で違憲とされたセントポール市条例と同様、ヴァージニア州法18.2-423の前段・後段は合衆国憲法第1修正に違反し違憲であると判断。
ヴァージニア州は連邦最高裁に上訴。
 

第二章(十字架焼却の歴史)全訳

 十字架焼却は、スコットランドの部族がお互いに信号を送りあう手段として14世紀に発祥した。サー・ウォルター・スコットは、『湖上の麗人』でドラマティックな効果を盛り上げるために十字架焼却を用いた。作中では、十字架焼却は召喚(a summons)と軍隊の召集(a call to arms)の双方を意味していた。
しかし、合衆国における十字架焼却は、ずいぶん前にそのスコットランドの原型から解き放たれたものになっている。この国において十字架を燃やすことは、クー・クルックス・クラン(Ku Klux Klan, KKK)の歴史と分かちがたく絡み合っている。
 
 第一期クー・クルックス・クランは、テネシー州プラスキ(Pulaski)*3において1866年の春に始まった。クー・クルックス・クランははじめ社交クラブとして発足したが、すぐにそれからはかけ離れた存在に変貌した。
クランは南北戦争後の「再統合」(レコンストラクション、Reconstruction)*4及び、それに対応した、政治的プロセスへの解放された黒人の参加を促す動きと戦った。やがてクランは南部全土に「真の恐怖による支配」をもたらすようになった。クランは、鞭打ち、火刑に処す旨の脅迫*5、殺人といった手段を駆使した。クランの犠牲者は、黒人、クランに反対する南部の白人、カーペットバッガー(carpetbagger)と呼ばれる移住してきた北部の白人から成っていた。
 
 クー・クルックス・クランの活動は、国家レヴェルでの立法活動を活発化させた。1871年、グラント大統領は、南部諸州におけるクランの恐怖による支配が人々の生命や財産を危殆に陥らせていることを示唆するメッセージを連邦議会に送った。Jett v. Dallas Independent School Dist 491 U. S. 701, 722 (1989)参照。連邦議会はこれに応え、いわゆるクー・クルックス・クラン法を通過させた。このようにして得た新しい力を使って、グラント大統領はサウスキャロライナ州のクランを鎮圧した。そしてその波及的効果はたちどころに現れ、他の州においてもクランの勢力は著しく縮小した。レコンストラクション期の終わり、1877年には、第一期クランはもはや存在していなかった。
 
 クー・クルックス・クランの第二の創世は、トーマス・ディクソン(Thomas Dixon)によるクー・クルックス・クランを題材にした歴史小説『クランズマン(The Clansmen)』の出版された1905年にはじまった。ディクソンの本は、第一期クランを、黒人およびレコンストラクションの「恐怖」から南部を「救う」英雄的組織として同情的に描いていた。
実際には第一期クランは十字架焼却を行ったことはなかったが、ディクソンの小説には、元奴隷を処刑する儀式に際しクランが十字架を燃やす描写があった。Capitol Square Review and Advisory Bd. v. Pinette 515 U. S. 753 (1995)Thomas判事の同意意見参照*6。その結果、十字架焼却は第一期クー・クルックス・クランと結び付けて受け取られるようになった。
1915年、D.W.グリフィス(D.W.Griffith)がディクソンの小説を映画『国民の創生(The Birth of a Nation)』に翻案し、これにより十字架焼却とクー・クルックス・クランの結び付きは打ち消しがたいものとなった。映画の中では十字架焼却が演じられていたが、それに加え、映画を宣伝するポスターが、フード付きの馬に跨りフードをかぶったクラン員が左手で手綱を握りつつ、燃え盛る十字架を持った右手を頭上高く掲げる姿を描いていた*7。その1915年11月以来、第二期クランが始まったのだった。
 
 第二期クランの発端から、十字架焼却は暴力の脅威と共有されたイデオロギーのメッセージという二つの意味を伝達してきた。最初の入団式は、ジョージア州アトランタ付近のストーンマウンテンで行われた。山では40フィート高の十字架が燃やされ、クランの構成員が忠誠を誓った。この十字架焼却は合衆国において二番目に記録された例である。この国で行われた最初の十字架焼却として知られる例は、この一ヶ月少し前、ジョージアの群集が、アトランタのどこからでも見えたという巨大な十字架をストーン・マウンテンで燃やし、リンチによるレオ・フランク殺害*8を祝ったというものであった*9
 
 新しいクランのイデオロギーは第一期クランのそれと大きく異なるものではなかった。あるクランの出版物は以下のように強調する。
「われわれは人種間の区別を公言する。……かつ我々は、白人の優越性を忠実に維持することに常に真摯たろうとするし、そのことについてはいかなる妥協にも熱心に反対し続けるだろう。」
暴力はいつも新しいクランの本質的な一部分であり続けた。1921年9月、New York World紙は152件のクランによる暴力行動を報道しているが、そこには4件の殺人、41件の鞭打ち、そして27件の"tar-and-featherings"*10が含まれる。
 
 たびたび、クランは十字架焼却を脅迫や身に迫る暴力の仄めかしの道具として用いた。たとえば、1939年および40年に、クランはシナゴーグ*11と教会の前で十字架を燃やしている。シナゴーグ前でひとつの十字架を燃やした後に、クラン構成員はこう書いている。「もし十字架焼却がユダヤ人どもを追い出さなければ、我々はいくつかの喉を掻き切りそれを見せつけることになるだろう。」
1941年マイアミにおいて、クランは住宅供給計画の申し込み会場*12の前において四つの十字架を燃やし、「我々はお前たちの町から黒人どもを遠ざけておくためにここに来ている…。法がお前たちを誤らせたときには、我々を呼ぶがいい。」と宣言した。
また1942年アラバマでは、何週間も続いた鞭打ちと恐怖の日々の嵐のようなクライマックスにおいて、クランは"labor election"*13の晩に労働組合会館および労働組合の指導者の家の前で十字架を燃やした。
これらの十字架焼却は、クランが自らの目的に反するとみなした人々への脅しを実体化するするものであった。そしてこれらの脅しは、クランの暴力の長い歴史に裏づけられた特別な力を持つものであった。
 
 第二次大戦後も、クランは十字架焼却を脅迫のために用い続けた。ひとつ例を挙げれば、1949年1月21日Richmond News Leader紙は、以前は白人のみが居住していた区域に転居してきたばかりのアフリカ系アメリカ人の教師が、家の前庭で十字架を燃やされ市警に保護を求めた、という事件を報道している。
また、1940年代末期にヴァージニア州サフォーク(Suffalk)で行われたある十字架焼却の後で、ヴァージニア州知事が「すべての人種の州市民が、クランおよびその他の組織によるあらゆる形の脅迫やテロリズム支配下に置かれることを、許容しない」と発言している。
これらの十字架焼却事件が、その他の要因とあいまって、1950年のヴァージニア州最初の十字架焼却禁止条項を準備した。
 
 1950年代から60年代にかけての公民権運動と、本法廷のBrown v. Board of Education 347 U.S. 483 (1954)判決が、さらなるクランの暴力の暴発の着火点となった。それらの暴力行動は、爆破、殴打、狙撃、刺突、四肢切断、といったものを含んでいた。クランの構成員は、公民権運動にかかわる者の家の芝生で十字架を燃やし、フリーダム・ライド運動*14従事者を襲撃し、教会を爆破し、黒人ばかりでなく公民権運動に同情的であるとクランが目した白人をも殺害した。
 
 クランの歴史を通じて、十字架焼却は、そのアイデンティティイデオロギーの共有された力強いシンボルであり続けた。十字架焼却は、クランそのものの象徴となり、クランの集会における中心的な物となった。クラン憲章(krolanと呼ばれる)によれば、「炎の十字架(fierly cross)」は「我々が信奉する聖なる目的と原理に対するクラン員の真摯で没我的な献身を表す紋章」であった。また、クランは"The Fierly Cross"と題した会報や雑誌を発行した。
 
 合衆国全土で行われるクランの集まりにおいて、十字架焼却は大会や儀式におけるクライマックスをなすようになった。きたるべきクランの大会を宣伝するポスターは、クランの構成員が十字架を手に持っている図案をよく採用した。典型的な集まりの進行としては、クラン支部(klavern)長の祈りとともに十字架焼却が開始され、続いて"Onward Christian Soldiers"が合唱される、という場合がある。十字架に点火し、同時にメンバーが燃える十字架に向かって左腕を掲げつつ"The Old Rugged Cross"を歌う、という場合もある。その歴史を通して、クランは儀式において十字架焼却を用い続けた。
 
 そのメンバーにとっては、十字架は祝典や儀式のしるしである。1940年に開催されたナチ‐クラン合同大会は、燃え盛る十字架の下で行われた二人の団員(クランの最盛装に身を包んでいた)の結婚式で締めくくられた。
州議会に「反覆面法案」がかけられていたとき、クランは抗議のしるしとして十字架を燃やした。
1960年3月26日、1000万人の団員をリクルートするという企画の一環として、クランは南部各地で大会と十字架焼却を催した。さらに同年、クランの存在はリチャード・ニクソンとジョン・ケネディの間で行われた第三回公開討論の議題の一つとなったが、両候補ともクランを拒絶した。この公開討論の後も、クランは十字架焼却によりニクソンへの支持を表明しつづけた。
クランが差別撤廃に反対する際、より非暴力的な戦術の採用をこころみたときも、十字架焼却はクランの顕著な特徴だった。ひとことで言えば、十字架焼却はクランのイデオロギーや団結の象徴でもあり続けてきたのである。
 
 今日にいたるまで、そのメッセージが政治的なものであれ脅迫をも意味するものであれ、十字架を燃やすことは、「憎悪の象徴」である。Capitol Square Review and Advisory Bd. v. Pinette 515 U. S. 753 (1995)Thomas判事の同意意見参照。
十字架焼却が全く脅迫的メッセージを伝えないこともある一方、脅迫がその唯一のメッセージであることもある。例えば、クランに加入していない特定の人物に向けて行われた場合には、十字架焼却はしばしば対象者に肉体的危害の恐怖を抱かせる脅迫のメッセージとして機能することになるだろう。クランにまつわる暴力の歴史が身体への攻撃や死の可能性が単なる憶測ではないことを示しているのだから、なおさらである。特定の人物に向けて十字架を燃やす者は、深刻な脅迫を行っているのであり、対象がクランの怒りを買いたくなければその望むところに従うよう威圧しているのである。
実際、被上訴人ElliottおよびO'Maraのケースが示すように、クランに加入していない個人が他人を脅したり威嚇したりしようとするとき、その暴力との結びつきゆえに十字架焼却を用いることがある。
 
 要するに、十字架焼却が不可避的に脅迫的メッセージを運ぶものだということはできないが、これを行うものはしばしばメッセージの受け手が生命に危険を感じることを意図している。そして、十字架焼却が脅迫として用いられた場合、これより強烈なメッセージはほとんどないといっていいだろう。
 

第三章(十字架焼却を犯罪として禁止するヴァージニア州法18.2-423前段につき合憲)未訳

 

第四章(「一応の証拠」を規定するヴァージニア州法18.2-423後段につき違憲、相対多数意見)未訳

 

第五章(結論、相対多数意見)全訳

Barry Blackに関しては、我々は有罪判決が成り立たないという点でヴァージニア州最高裁に同意し、ヴァージニア州最高裁の判決を支持する。ElliottおよびO'Maraに関しては、我々はヴァージニア州最高裁の判決を破棄し、事件のさらなる審理のため差し戻す。

*1:反駁されない限り事実を立証するに十分な証拠。要するに、十字架を燃やす行為が立証されれば同時に「個人あるいは集団を威嚇する意図」も推定され、被告人側に「意図のないこと」の立証責任が負わされる、という意味であると思われる。

*2:http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101212/p1参照

*3:アメリカ独立戦争の英雄とされるポーランド出身の軍人の名にちなんだ地名と思われる

*4:一般には、合衆国史上、奴隷解放宣言の1863年から「1877年の妥協」にいたるまでの南北戦争後の合衆国(北部)政府による南北統合の努力がなされた期間を言う。南部が軍事占領されるなど、南部諸州にとっては屈辱的な時代であったとされる。

*5:原文:threatning to burn people at the stake この訳には自信がない。

*6:Thomas判事(当時最高裁唯一のアフリカ系判事)はこの同意意見において次のように書いている。「明らかに、ディクソンはレコンストラクション期のクー・クルックス・クランのメンバーは『古スコットランド氏族の転生した霊魂』だと信じていた」

*7:http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c2/Birth-of-a-nation-poster-color.jpg

*8:リンチによるレオ・フランク殺害という酸鼻な出来事についてはこちらを参照。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6 http://en.wikipedia.org/wiki/Leo_Frank

*9:ここでは明言されていないが、こちら(http://en.wikipedia.org/wiki/Cross_burning)によれば、最初の十字架焼却の約二ヶ月前のリンチ殺人に参加したメンバーは、この二回の十字架焼却にも参加していたという。

*10:人の体にタールを塗り羽毛でおおう私刑の一種。『国民の創生』では黒人が南部白人に味方する黒人に対しこの私刑を行うシーンがあった。

*11:ユダヤ教の教会

*12:原文:a proposed housing project この訳も自信がない

*13:労働組合の役員選挙であろうか

*14:公民権運動において長距離を移動するバスによって行われたデモ運動。