靖国合祀取消訴訟の那覇地裁10月26日判決について

あまりに形式的な

10月26日、いわゆる靖国合祀取消訴訟につき、那覇地裁が原告の請求*1を全て棄却する判決を出した。
報道によれば、主に以下のような理由で原告の請求は棄却されたようだ。

判決で平田直人裁判長は、山口県護国神社への合祀をめぐり遺族が敗訴した1988年の自衛官合祀拒否訴訟の最高裁判決をふまえ、「他者の宗教的行為に不快な感情を持つとしても、法的救済を求めることができるとすれば相手の信教の自由を妨げる」と指摘。靖国神社の「信教の自由」に基づく合祀を尊重する立場を示した。

http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000001010270002

平田直人裁判長は「民間人だった家族が英霊として祭られることに遺族が不快感や嫌悪感を抱くのは理解できないわけではないが、こうした感情は、信教の自由を妨害する具体的な行為があって初めて法的に保護される」と指摘しました。そのうえで「靖国神社の合祀は戦没者をおとしめたり、社会的な評価を低下させたりするものではなく、遺族に対する信教の自由の妨害行為があったとまでは認められない」と判断しました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20101026/k10014834771000.html

平田裁判長は(略)遺族側に強制や不利益が生じたかどうかが重要と説明。「靖国神社は遺族以外に合祀の事実を公開しておらず、合祀により戦没者の社会的評価が低下するとも考えにくい」と判断した。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/okinawa/news/20101027-OYT8T00246.htm

 
判決の論理は、これらの記事だけではよく分からない。web上で判決文を探してみたが、見つけることはできなかった*2
そこで、手がかりとして、朝日新聞の言う1988年の最高裁判決*3を読んでみた。
この事件を簡単に説明すると、クリスチャン女性の夫である自衛官が公務中に事故死したところ、数年後、女性が自らの信仰を理由に断る意思を表明しているにもかかわらず、山口県護国神社が亡夫を合祀した、というものである。女性は国等を被告とし、宗教上の自由ないし人格権等が侵害されたとして、損害賠償等を求める訴えを提起した。第一審・第二審はいずれも女性の請求を認めたが、最高裁はこれを覆し女性を敗訴させた。
判決文のうち、今回の那覇地裁判決が拠っているらしい部分を以下に引用する。

人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によつて害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえつて相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されているからである。原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。

非常に分かりにくい文章であり、また曖昧な言い方をしているが、引用の太字部分は要するに「相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為」をやめさせたり、それにより損害を受けたとして賠償を請求したりすることができるのは、その行為が「強制や不利益」によってこちら側の「信教の自由を妨害する」場合に限られる、と言っている*4。非常に限られた場合にしか損害賠償・差し止めを認めない趣旨だ。報道を見るかぎり、26日の那覇地裁判決は、この判断をそのまま踏襲したものと考えられる。
 
この一般論の部分だけ見ると、一見非常にもっともらしい。一方が主張するのが単なる「静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益」に過ぎないのに、これに対するもう一方の「信仰に基づく行為」がやめさせられるとしたら、それは不当であるようにも思える。例えば、同等程度の勢力を持つ対立宗派間での争いの場合とか、隣人が毎日行う宗教的行為が自分の宗旨に反するのでやめさせたい*5というような場合には、この論理はおおむね妥当だといえそうだ。
しかし、最高裁判決や今回の判決の具体的ケースにこの論理を当てはめると、これは非常に歪んだ話になってくる。個人の信教の自由と護国神社靖国神社*6の信教の自由を、イーヴンなものとして対決させることになってしまう。判決の太字の部分は、事案に即して分かりやすく言い換えるならば、神社がお前の肉親を勝手に祀り上げるのは信教の自由だから寛容になれ、と遺族に対して言っているも同然なのだ
しかも、護国神社靖国神社が戦前までは国家の機関であったこと、そして実質的には現在も国家と密接な関係を持っていることを考えに入れれば、お互いに対等の私人どうしの関係であることを前提とした論理を当てはめるのはあまりに形式的である。
法的論理の世界で見れば、護国神社靖国神社は国家から独立した宗教法人であり、私人である。この論理で処理するべき場面も多いだろう。しかし、国家と協力し合って*7(かつ、国家奉仕のイデオロギーのために)行われた合祀に対する遺族からの異議申し立ての場面に対応するのには、こうした法理はまったくなじまない。「信教の自由」も含まれるところの人権という概念は、基本的に「国家に」侵害されないことを保障するものである。国家とタッグを組んで行われたに等しい合祀が「信教の自由」により厚く保護されるというのは、ほとんど悪意すら感じる逆立ちした論理である。
さらに今回の事件についていえば、第二次大戦で「天皇制国家護持のための捨て石」にされた(弁護団の声明参照)沖縄戦における民間人の犠牲者を、戦争賛美イデオロギー的性格の強い靖国神社が勝手に合祀したことに対し、肉親が訴えたものである。それを過去の最高裁判決の形式的論理のコピペで棄却した(と思われる)のだから、ひときわ酷薄さがきわだつ判決といっていい。
 
そもそも1988年最高裁判決じたい、一刻も早くゴミ箱行きにしなければならない恥ずべき判断だった。それを20年以上たった今も判例として後生大事に守り続けている裁判所は、悲しくなってくるほど情けない存在だと思う。
 

id:lever_building氏のコメント

ところで、沖縄タイムスの記事に付けられたブックマークコメントで、id:lever_building氏が、「なぜ『信教の自由』なんて話がでてくるのか、ぜんぜん意味わからないので、だれか解説して下さい。」と書いている。
このエントリを書いたのは、調べて考えたことをまとめておきたいという動機がもっとも大きいが、ちょっと「解説」やってみようかな、という我ながらすこしキモイ動機もないではない。
その意味でlever_building氏のコメントは私にきっかけを与えたものといえる。しかし、そればかりではなく、「なぜ『信教の自由』なんて話がでてくるのか」という指摘*8にはすこし気になるというか、心に引っかかるところがあった。その点についてすこし書いてみたい。
 

原告は「信教の自由」の主張をしていたのか

lever_building氏の疑問に対する最も簡単な答えは、「原告がそう主張したから」というものである。
そこで、弁護団の声明をよく読んでみると、原告の主張についてこのように述べている。

合祀は遺族らの承諾を得ずに行われたもので、遺族らの「家族的人格的紐帯の中で本件戦没者を敬愛追慕する情を基軸とする人格権」を侵害するものである

このような主張は、微妙に「信教の自由」*9の話からずれているように読める。原告はそもそも「信教の自由」なんか主張するつもりはなかったのかもしれない。深読みするならば、「信教の自由」を主張して1988年最高裁判決の論理に絡め取られては敗訴のおそれが大きいとして、あえて「信教の自由」とは異なる論理を立てているのかもしれない。
だとすると、今回の判決は原告側の意思を全く汲むことなく、相も変らず1988年最高裁判決と同じ理屈で冷たく切って捨てたことになる。
まさに「なぜ『信教の自由』なんて話がでてくるのか」という話になる。
もっとも、もしそうなら原告弁護団はそのような判決の非を強く非難するだろうと考えられるが、とくにそのようなことは判決後の声明で述べられていない。やはり深読みのしすぎかもしれない。
 

1988年最高裁大法廷判決の伊藤反対意見

もう一点、1988年の最高裁判決では、伊藤正巳裁判官が反対意見*10を書いている。
この反対意見がとても興味深い。一部を引用する。

本件において、被上告人は、自己の信ずる宗教上の活動を阻害されたり、県護国神社への参拝を強制されたりしたことはないのであるから、信教の自由そのものへの侵害は認めることができないのである。そこで、問題は、信教の自由とかかわりをもつとはいえ、信教の自由そのものではない、原判示の「静謐な環境のもとで信仰生活を送る利益」が被侵害利益となりうるかどうかということになる。
私は、現代社会において、他者から自己の欲しない刺激によつて心を乱されない利益、いわば心の静穏の利益もまた、不法行為法上、被侵害利益となりうるものと認めてよいと考える。この利益が宗教上の領域において認められるとき、これを宗教上の人格権あるいは宗教上のプライバシーということもできるが、それは呼称の問題である。これを憲法一三条によつて基礎づけることもできなくはない。私は、そのような呼称や憲法上の根拠はともかくとして、少なくとも、このような宗教上の心の静穏を不法行為法上の法的利益として認めうれば足りると考える。社会の発展とともに、不法行為法上の保護利益は拡大されてきたが、このような宗教上の心の静穏の要求もまた現在において、一つの法的利益たるを失わないといつてよい。

この意見は、「信教の自由」という人権規定を逆用して個人(原告)の利益保護の範囲を著しく限定する論理をひねり出した多数意見(判決本文のこと)に対し、「『信教の自由』なんて話にする必要ないじゃん」と鮮やかに切り返しているようにも見える。
lever_building氏の指摘は、この反対意見に通じるものなのかもしれない(やはり深読みしすぎか)。
 

単純な話

法律論に淫しすぎたかも。
単純に「戦前戦中戦後に渡って差別しつつ利用しつくされ、犠牲になった沖縄の死者を、勝手に靖国なぞに祀りやがるとはあまりにひどい冒涜である」という話が、なぜ宗教の話にすりかえられてしまうのか、といった疑問なのかもしれない。
これはもっともな疑問だと思う。
訴訟において勝つ見込みのある法律構成を提示しようとすると、えてして原告の本来の思いから遠ざかる主張になってしまう、というのは「解説」になってないだろうか。
 
 
追記:
資料:「沖縄靖国合祀取り消し訴訟」判決要旨 1 - 海鳴りの島から
資料:「沖縄靖国合祀取り消し訴訟」判決要旨 2 - 海鳴りの島から
 
こちらに判決要旨が掲載されているので、掲記しておく。
 
追記2:
裁判所のホームページのデータベースに判決全文(pdf)がアップされていたので、リンクを掲げておく。
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=80895&hanreiKbn=04

*1:こちらに紹介されている弁護団の声明によれば、靖国神社に対しては合祀の取消と慰謝料を、国に対しては慰謝料を、それぞれ請求したものらしい。

*2:文末の追記参照

*3:最高裁大法廷判決1988年6月1日民集42巻5号277頁。最高裁のサイトで判決文全文を閲覧できる。http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=52169&hanreiKbn=01

*4:引用部分の直後、具体的な事例に即した判断を述べる部分で、護国神社の行為により原告が何も強制されたり具体的な不利益を受けたりしていないことを示して、原告の利益がなんら侵害されていないという結論を導いているため、そう判断できる。

*5:はじめ「隣人が毎日行う宗教的行為が不気味なのでやめさせたいというような場合」と書いていましたが、よく考えたらこの場合の例として適切ではないことに気がついたので、このように訂正しました。

*6:法的には宗教法人であり、法人も自然人(個人)と同じく私人として一定の限度で人権を享有しうるとされている。

*7:1988年最高裁判決および今回の那覇地裁判決は、共同行為性を否定して国家責任を遮断する論理を取るが、これも信教の自由についての法理と並んで牽強付会な論理である。ふつうに見れば(少なくとも1988年最高裁判決の事例では)国の積極的関与は明らか。この点については、伊藤裁判官反対意見を参照。脚注3に判決文へのリンクを張ってある。判決文28ページからが伊藤反対意見である。

*8:ほんとうに誰かに解説してほしかっただけなのかもしれないが、「なぜ」というのは反語で、おかしいところを指摘しているような気もする。この後に「こんなふうに『信教の自由』が持ち出されるなら、『自由』なんていらないから破防法適用してヤスクニをつぶすべき。」と続けているし。

*9:憲法20条1項前段「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」

*10:最高裁判決に限り、個々の裁判官が裁判所(合議体)の判断に意見を判決に付すことが許される。ちなみに、この最高裁判決は大法廷で審理されたので裁判官15人で合議したが、反対意見を書いたのはそのうちたった一人である。