漱石の「満韓ところどころ」

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20110216/p1
matsuiismさんが、このエントリーで高澤秀次『文学者たちの大逆事件韓国併合』を引用しつつ漱石の「満韓ところどころ」にも触れている。私も前回のエントリーの注でこの紀行文に言及したのだけれど、高澤氏によれば、

そもそもこの旅自体、「満鉄(一九〇六年設立)総裁の地位にあった中村是公後藤新平の後継者)の慫慂(しょうよう)で実現した旅」であり、「日本の国民作家」を「満鉄をはじめ、アジアに進出する大日本帝国の各出先機関」で歓待する、つまりこの国家的事業に「国民作家」を動員し、そのお墨付きを得ようという性格のものだった。

ということだったらしい。これは知らなかった。高澤氏の本に興味を覚えたので、いずれ機会があれば読んでみたい。
「満韓ところどころ」は、たしか岩波・新潮・角川の各文庫版のいずれにも収録されておらず*1、私がこの文章を読んだのも、図書館から全集か何かを借りてくるかしたのだったと思う。なので、手元になく、今内容を確認するすべがないのだが、記憶にある限りでは、この紀行文は何よりも「詰まらない」ものだった。漱石をこの旅に半ば無理やり(そのように書いてあったように記憶する)連れ出した張本人であり、漱石の帝大時代の同級生でもある当時の満鉄総裁・中村是公をはじめとした現地の名士たちとの交遊録が延々と続くばかりで、肝心の「土地」に関する記述がほとんどないのである。あっても、

露助(ろすけ)」、「チャン」、「汚(きた)ない支那人」、「如何にも汚ない国民」といった差別的表現

が頻出し、読むに耐えないものだった。漱石はこの文章をものするのに得意の戯文調を選択したのだが、体調が悪かった*2ことも影響しているのか、いかにも精彩を欠いていた。そういえば、およそ漱石の作品において、中国や朝鮮といった「大陸」は、漱石的登場人物(その多くは「高等遊民」である)の生活にとっての外部であり、わけのわからないもの・都合のわるいもの*3を放り込むブラックボックスとして機能していたのだった。
ところで、これもmatsuiismさんのエントリーを読んで初めて知ったのだが、この旅において漱石が日本軍に虐殺された閔妃の墓を訪問していた、という事実が朝日新聞により報道されていた*4らしい。この記事は韓国における漱石研究者の第一人者である尹相仁・漢陽大学(ソウル)教授の言葉を紹介している。尹教授は、

満韓旅行で漱石は、満鉄や朝鮮統監府の日本人ばかりと会って、中国人、朝鮮人は見ていなかった。閔妃墓訪問の前日に景福宮などを見物しており、宮殿を見たから次は墓を、というほどの意識で行ったのだろう

というごくもっともな言葉とともに、

書かれなかった『満韓ところどころ』の韓国編を、あの戯文体で書きついでみたい

とも言っていて、これはとても読んでみたい。
 
[2月19日追記]ブコメid:EoH-GSさんにご指摘いただいたが、「満韓ところどころ」は青空文庫に収められているらしい。ご教示感謝します。なお、冒頭の部分を読んでみたところ、中村是公漱石を旅に「半ば無理やり」連れ出したというのは記憶違いであったことがわかったので、訂正した。

*1:このこと自体、このテクストの置かれた「位置」を現しているように思われる。今となっては、「国民作家」がこのような文章を書いたということは、たいへん「ばつのわるい」または「都合のわるい」事実なのだろう。

*2:漱石胃潰瘍で倒れるのはこの旅行の翌年・1910年(明治43年)のことである。この年は、韓国併合大逆事件の年でもあった。

*3:例として『明暗』に登場する社会主義者・小林

*4:http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201008140129.html