前回の記事について

日の丸と燃える十字架 - 小熊座

「いわゆるふつうの人たちが無邪気に日の丸にコミットするカルトな日本社会…」というようなことを書こうとして

と、「無邪気に国家に同一化すること」に対し批判的なことを書いておいて、その直後で

それが戦後の日本経済の大躍進の欠かせない前提となったという見方もあろうし、そうした面があることは否定しきれないとも思うが、やはり私は、このことが現在の日本に多くの禍根を残したと思う。

私たちはいまだに明治を超えられていない。もちろん先験的に「超えなければならない」ということはできない。しかし、私たちが戦後ずっとそうしてきたように、このような体制をあいまいに許すのは、違うだろう。まずは、彼らが実際に何をやったのか、直視しなければ。

なんて書いている。微妙に「私(たち)=国家」という立場で語ってしまっているような。それだけでなく、文章全体が端的に言って寒いというか上滑りしている感があるというか…的確に言葉にできないが、なんだかもやもやする。その前の記事で削除したことを別エントリーを立てて書き直してみたものだったのだけど、やはり書かないほうがよかったのかもしれない。