長谷部恭男「モンテスキューとトクヴィル」


(実際にアップした日付は2014年6月5日です)
 
以下は長谷部恭男『続・Interactive憲法』(有斐閣)所収の「モンテスキュートクヴィル」全文(脚注も含め)である。
 
 
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*Bは憲法学の准教授、Dはゼミの学生。
 
―研究室のドアをノックして、Dが入ってくる―
 
D:先生に、たまには文学作品くらい読まないと人間の幅が広がらないって言われたんで、これ読んでみました。
B:ああ、アルベール・カミュの『カリギュラ*1ね。面白かった?
D:面白かったですが、難しいところもありました。カリギュラが無差別に臣下を殺して財産を没収し始める一方で、腹心の部下、エリコンに月を探してくるように命じますが*2、月って何の象徴なんでしょう。永遠不死の命のことですか?
B:そういう即物的なものじゃないでしょうね。カリギュラはそれらしい言い方をすることもあるけど。むしろ、自分が生きる意味、この宇宙の意味を与えてくれる、揺るぎない確かなものっていうことだと思うけど?不死の生が手に入っても、無意味であれば同じことでしょ。
D:でも、そんな確かなものはない、というのがカミュの不条理哲学の出発点ですよね。
B:そうね。人間を超越した存在としての神が死んだ以上、宗教に救いはない。かといって、カントやサルトルみたいに、理性的存在たる人間が自分たちに共通の価値秩序を創造して、自ら人生と宇宙に意味を与えるんだというヒューマニズムの御神輿も、カミュにとってはお目出度すぎて、とても一緒には担げない。人間は意味を求める。でも意味のない、意味の与えようもないこの世界を引き受けて、それを生きるしかないというのが、カミュの言っていることだと思うけど*3
D:もう少し細かいところでも、分からないところがあります。カリギュラが予測不能の暴君統治を初めるとき、「おれはこの時代に平等という贈り物をしてやる」って台詞を吐きますが*4、これは、この世が不条理である以上、あらゆる価値の客観的判断基準が失われていて善悪、美醜の判断は不可能だ、それを皆に気づかせてやるということですか?
B:そういう解釈もありうるけど、暴君支配とは何か、というヨーロッパ政治思想の伝統に即した理解もありうるわね。ほら、モンテスキューが言ってることだけど〈と、『法の精神』を書棚から取り出す〉。ここね。「人間は共和政体においてはすべて平等である。彼らは専制政体においても平等である。前者においては彼らがすべてであるから、後者においては彼らハムであるから」*5
D:任意に殺され、財産を没収されても文句を言えないほど無価値のものとして扱われるという点で、専制政治化では、みな平等ということですか。
B:モンテスキューは、共和政体と対照的に、君主政体も専制政体も、ただ1人が統治するという点では共通だけど、君主政体の場合は、君主が「確固たる制定された法律によって統治する」が、専制政体では、「ただ1人が、法律も規則もなく、万事を彼の意思と気紛れによって」支配するって言ってるでしょう*6。権力がどう行使されるのか、事前に全く予想がつかないことが、臣下が奴隷扱いされることと対応しているというわけ。
D:彼が『法の精神』の中で描くイギリスは、三権分立の権限配分を通じて、法律による統治が確保されているから、善い君主政体だということになるんですね。
B:そこはどうかしら。モンテスキューは、君主政体では、中間的な諸権力が「政体の本性を構成する」と言ってるでしょう*7。典型的な中間権力は、貴族階級ね。「君主なくして貴族なく、貴族なくして君主なし。もっとも、世には専制君主というものはある」というわけだから*8、君主の権力を抑制するだけの力を備えた貴族階級が存在しないと、君主政体は専制政体へと変質してしまうというのが、彼の観察でしょうね。
D:でも、イギリスにも貴族階級はありますよね。現に、貴族院が議会の一院になってきたわけですし。
B:ところが、モンテスキューの観察によると、イギリスの貴族階級は弱体化しちゃって、それ自体では君主の権力に対する防波堤にはなりえないのよ。同じ箇所だけど、「イギリス人は、自由を助長するために彼らの君主政を構成していた中間諸権力のすべてを取り除いた。彼らがこの自由を保持するのは確かに正しい。万一その自由を失うにいたるならば、彼らは地球上で最も奴隷的な民族の1つになるであろう」って言ってるでしょう*9モンテスキューは、むしろ母国のフランスの方が、強力な貴族階級の存在によって人民の自由を効果的に、かつ、節度をもって守っていたと考えていたようね*10。もっとも、貴族という中間的身分だけではなく、法の支配を守る独立の機関やそれを担う法曹集団も重要だと言っているけど*11
D:とすると、イギリスの場合、自由を守ってくれるほど強力な貴族階級もいないし、司法権力も陪審制のために無になってしまったからこそ*12、自由を守るために政治権力を機能的に配分する憲法制度が是非とも必要というわけですか。
B:そう。イギリス人は君主政の本来の構成要素を失ってしまった。だからこそ、わざわざ人為的に構成した政治体制で自分たちの自由を守るしかないというわけ*13モンテスキューは、イギリスの憲法について説明する第11編第6章の末尾で、他の国がイギリス憲法の真似をするのはおすすめしないって、わざわざ念を押しているでしょう。
D:現代の我々からすると、階級の差別がなくてみんなが平等な政治体制の方が、自由を守るには適していると感じられますが。
B:モンテスキューは、すべての市民が平等に政治を運営する民主政体は、かえって運営が難しいことを指摘してるのよ*14。そういう政体が首尾よく運営されるためには、人民が徳を備えていること、つまり国全体の利益をいつも考えて、そのために奉仕する精神が行き渡っていないといけないんだけど、そんな「祖国への愛、真の栄誉への欲求、自己放棄、自己のもっとも大事な利益の犠牲」といった徳は、我々は「単に話を伝え聞いただけの」ものにすぎない、古典古代のギリシャやローマは、そういった有徳の士で溢れていたかも知れないが、彼の時代にはそんな徳は廃れてしまったと言ってるでしょう*15。少なくとも、市民がそうした徳を備えるためには、自分の利益と社会全体の公益とのつながりが実感できないといけないから、国の規模が小さくないと共和政は成り立たないとも言ってるわ*16
D:君主政の方が、法律に基づく善き統治は簡単だということなんですか?
B:「君主政においては、政治は、できるだけ少ない徳をもって重大な事柄を遂行させる」と彼は言ってるわね。君主政体の基本原理は名誉で*17、名誉というのは、もっぱら自分のためになることだけど、自分にとって名誉になる行いをすれば、普通はまわりの人々のためにもなるでしょう*18。共和政体での徳みたいに、自分よりも国のことを愛する必要はないわけ。そういう意味では、希少な資源である人々の徳を多量に消費する必要のない君主政の方が、共和政よりもエコノミカルだということになるわね。
D:となると、モンテスキューが我々に対して提起している問題は、いかにイギリスを真似して巧みに権力を分立させるかというよりは、むしろ、名誉を行動原理とする貴族という強い中間的権力が存在せず、しかも人民に公徳心の欠けた現代社会で、どうやって権力への防波堤を築いて人民の権利や自由を守る政治体制を維持するかということになるわけですか?
B:そういうことになりそうね。権力分立なんて枝葉の問題で、根本問題はもっと他にあったということ*19
D:でも、それは難問ですね。どんな回答があるんですか?
B:回答は一つとは限らないわよ。まず、モンテスキュー自身はどんな回答を出した?
D:えぇと、つまり、三権を分立させるということですか。でも、彼は、権力分立だけでは不十分で、立法府を異なる社会階層の代表で構成して、すべての階層が同意したとき初めて法律ができるという仕組みにすることが必要だと言ってますね*20。それで、イギリスの議会は庶民院貴族院、国王の三者で構成されているんだって。そうすれば、でき上がった法律は、すべての社会階層の既存の自由や権利を守るものになるはずです*21。でも…
B:でも?
D:でも、現代の民主主義国家は、そもそも異なる利害を有する社会階層の存在を理念的に否定しているわけですから、この考え方をそのままあてはめるわけにはいきません。むしろ、樋口陽一先生の仰るルソー=ジャコバン型国家像に沿って、すべての市民は平等な存在であるべきで、中間的権力さすべて粉砕されるべきだという考え方が主流ではないでしょうか*22
B:さぁ、そう簡単に言い切っていいかしら。確かに、現代の民主政国家で、立法府モンテスキューの描くイギリス議会のように構成するわけにはいかないでしょうけど、人々の自由を守ったり、社会全体の利益に貢献するような特権を一部の人々にのみ認めるという考え方は、現代の憲法の中にも見出だせるんじゃないかしら。
D:ひょっとして、カール・シュミットの言う、憲法による制度保障のことですか*23
B:そう。たとえば、党派に偏らずに中立的な立場で公務を遂行する官僚組織や、社会一般の関心動向とは距離を置いた環境で科学や学術を追求する高等研究教育機関憲法上、特殊な地位を認めるという考え方は、現代の憲法学でも十分に可能な立場よね*24
D:考え方としては確かにありえますが、現代社会を飲み込んでいるかに見えるポピュリズムの潮流に抗して、こうしたエリートの特権を守るのは、なかなか勇気がいりますね。人民の利害の一体性というのがポピュリズムの本質で、自分たちと違う他者(others)は、外国人だろうとエリートだろうと、排除するか、叩き潰すかだということですから。日本でも、このポピュリズムの勢いに乗らないと選挙に勝てないからということで、どの政党も公務員叩きで大忙しです。厄介なのは、権力の一元化というスローガンの下、こうしたポピュリズムに基づく他者排除の論理を、社会全体の公益と取り違える議論がこれまた多いことです。
もっとも、霞が関の公務員の場合、特権というほどの特権を持っているかどうかも怪しいものですが。頭のいい人たちですから、お金が欲しいんだったら、官僚になって安月給で夜遅くまで働くより、実入りのいい仕事はいくらでもあるはずです。
B:それでも社会公共のために頑張るというのがエリートのエリートたる所以じゃないかしら。そうした高い職業倫理を備えているからこそ、名誉を尊重した貴族の代わりになるわけでしょう。難しい途であることは確かだけど。
D:それに科学や学術の信用も、いわゆる「リスク社会」論の登場が示すように、相当にガタが来ています。科学技術の発展は、人々の生活を安心・安全なものにするどころか、ますます人工のリスクを増やして、将来の見通しを不安定にしていると言われます*25。自然の脅威から暮らしの安全を守ってくれるはずだったのに、実際には、一般庶民にとっては内容も理解できないし結果も予測不能な科学技術の専制を招いたと反感を買っています。
B:それはそうだけど、科学技術の成果なしで暮らしは成り立たないわよね。研究や勉強が何より好きという、ちょっと変わった人たちの努力のおかげで、今の暮らしがあるんだと思うけど。
D:他には、何かないんですか?
B:実入りのいい途のこと?
D:モンテスキューの問いに対する答えのことです。
B:もう1つは、樋口陽一先生ご自身が出しておられるわね。トクヴィルアメリカ型国家像ということで〈と、『アメリカのデモクラシー』の下巻を書棚から取り出す〉。
トクヴィルは、『アメリカのデモクラシー』の中で、典型的な民主国家たるアメリカでは、多様な結社が、君主政における貴族と同様の役割を果たしていることを指摘しているわけ。彼に言わせると、もはや近代社会に貴族階級を復活させるのは無理だけど、「普通の市民が団体をつくって、そこに非常に豊かで影響力のある強力な存在、一言で言えば、貴族的な人格(personnes aristocratiques)を構成することはできる」。そうすれば、「貴族制の不正と危険なしに、その最大の政治的便益のいくつかを獲得することができる」。とりわけ「これらの結社は権力の要求に対して自己の権利を擁護することを通じて、共通の自由を救う」のだと言ってるわ*26
D:君主政での貴族が自分の名誉を守ろうとして、その結果、人々の権利や自由のための防波堤になったのと同様に、強力な政治結社がそれぞれ、その権利を守ろうとすることが、結局、政治権力からの人民の共通の権利や自由を守ることになるというわけですね。まさに、モンテスキューの問いを意識した議論のように見えます。所属する団体ごとに高い職業倫理を求めるより、自分たちの権利を守ろうとして闘争する自然な傾向に頼る方が、これまたエコノミカルだと言えますね。
B:貴族階級が弱体化し、次第に平等化へと向かう近代社会において、強大な政治権力から人民の権利や自由をいかにして守ることができるかというモンテスキューの問いは、フランソワ・ギゾーやバンジャマン・コンスタンといった、フランス革命後の自由主義思想の系譜を貫いていた問題意識だから、この系譜を継ぐトクヴィルに同じ問題意識が現れるのは不思議ではないわね*27
トクヴィルは、さらに、プレスの自由が果たす役割や司法権の役割も指摘していて、とくにプレスの自由については、貴族制に生きる人々は、やむを得ぬ場合にはそれ無しで済ませられるかもしれないが、「民主的諸国に住む人々にはそれはできない。これらの人々の個人の自由の保障として、大きな政治集会、議会の大権、人民主権の宣言を私は信用しない」とまで言ってるわ*28
D:マスメディアについても、特権的な地位を享受しているのがけしからんという批判が時折見られますが、大きな力を持つマスメディアが無くなってしまって、すべての市民がインターネットでそれぞれ言いたいことを言っているだけでは、強力な政治権力から誰が人々の自由を守ってくれるのか、見通しがつかないとも言えますね。
ところで、トクヴィルアメリカ型国家像と対比されるルソー=ジャコバン型国家像について、トクヴィル自身はどう考えているんでしょう。
B:中間的権力が粉砕されて権力が一元化されたルソー=ジャコバン型国家が良好に機能するためには、社会全体の利益を真摯に考えてそのために貢献しようという公徳心に富んだ有権者団の存在が前提となるけど、すでにモンテスキューからして、そんなのは夢物語だと言っていたわけでしょう。トクヴィルも同じ見方のようね。ほら、こんなことを言ってる。

専制がこの世界に生まれることがあるとすれば、それはどのような特徴の下に生じるかを想像してみよう。私の目に浮かぶのは、数え切れないほど多くの似通って平等な人々が矮小で俗っぽい快楽を胸いっぱいに想い描き、これを得ようと休みなく動き回る光景である。誰もが自分にひきこもり、他のすべての人々の運命にほとんど関わりを持たない。…自分自身の中だけ、自分のためにのみ存在し、家族はまだあるとしても、祖国はもはやないといってよい*29

そして、こうした末人*30の面倒をみる後見的権力として、専制的権力が市民に安全を提供し、娯楽に興じさせ、生活の面倒をみることになるんだって指摘してる*31
D:身につまされますね。公徳心が希少な資源である以上、専制政治の下で末人がうようよしているのが平等な民主主義社会のデフォールトの状態だということですか*32。そうならないためには、多様な中間的権力が各自の特殊利益を守ろうとする自然な傾向を利用しながら、政治権力を抑制する仕組みを構想する必要があるわけですね。
B:そういうこと。
D:でも、たとえば、2003年のイラク戦争前夜には、何百万人もの市民が参加して全世界的な反戦デモが巻き起こりました。民衆の行動にも、まだ見るべきものはあるんじゃないですか。
B:そのデモの結果、アメリカやイギリスの政府は態度を変えた?
D:それは何の影響もありませんでしたが*33
B:街頭の民衆の行動に憲法制定権力が顕現するとシュミットが言ったのは遠い昔の話で*34、今はまっとうな国に関する限り、街頭と日常的な政府の政策決定の間でさえ、関節がはずれてると考えた方が安全でしょうね。
で、D君、今日の教訓は?
D:えぇと、文学作品を読んでいるときも、勉強のことは忘れるな、ということですか。
B:文学作品を読むのもいいけど、勉強も大事にしろとも言えるわね。ケースブックの予習はちゃんとして、誰がどの設問にあたっても答えられるようにしとくのよ。みんなにもそう言っておいてね。
D:「平等という贈り物」ですか。
B:そのとおり。何の差別もなくね。
D:〈独白で〉カリギュラは生きている。
 
(Professor B will be back soon.)

*1:渡辺守章訳(新潮社、1971)

*2:第3幕第3場

*3:ここでのカミュの理解は、Thomas Nagel, Secular Philosophy and the Religious Tempelament (Oxford University Press, 2010), Ch.1での解釈に依拠している。

*4:第1幕第11場

*5:モンテスキュー〔野田良之ほか訳〕『法の精神』(岩波書店、1987)第6編第2章。以下、『法の精神』の参照箇所は、編と章の番号のみによって示す。また、訳文には必ずしも忠実に従っていない。

*6:第2編第1章。アイザイア・バーリンは、アレクサンドル・コジェーヴによるスターリン体制の解釈を伝えている。「人民が法を破ってもいないのに破ったとして非難し、人民にはさっぱり理解できない行為をしたとして非難するならば―人民は、いわばどろどろのパルプになってしまうでしょう。そうなれば、誰も自分がどこにいるか分からなくなり、誰も安全ではなくなります。…いったんどろどろのかたまりが手に入れば、その時々に好きなような形にしていくことができます」〔河合秀和訳〕R・ジャハンベグロー編『ある思想史家の回想』(みすず書房、1993)100頁。

*7:第2編第4章

*8:第2編第4章。スペインやポルトガルでは、聖職者身分が君主政の専制政治への変質をくい止めていると、モンテスキューは指摘する。

*9:第2編第4章。

*10:モンテスキューは、第11編第6章で、イギリスの憲法が保障する「政治的自由は極端なもの(liberte politique extreme)」であり、彼自身は中庸を好むという。また、第29編第1章冒頭では、「中庸の精神が立法者の精神であるべきだ。それが私の言いたいことであり、そしてこの書物を著したのも、もっぱらそれを証明するためであったと思う。政治における善は道徳的善と同様、つねに両極の中間に位置する」と述べる。

*11:第2編第4章。

*12:裁判権力が常設的な機関に与えられず、期間を定めて人民の中から選び出された人々によって行使されるようにすれば、「人々の間でひどく恐れられる裁判権力が、ある身分にも職業にも結び付けられないので、いわば眼に見えず無となる」(第11編第6章)。

*13:これは、川出良枝『貴族の徳、商業の精神―モンテスキュー専制批判の系譜』(東京大学出版会、1996)214〜17頁が強調する点である。

*14:モンテスキューは、共和政体を、人民全体が権力を持つ民主政と人民の一部だけが権力を持つ貴族政とに区分する(第2編第2章)。以下での本文の説明は、民主政として共和政体のみを想定したとしても、あてはまる。

*15:第3編第5章

*16:第8編第16章

*17:第3編第6章

*18:名誉を重んずる貴族の例としてモンテスキューが挙げるのは、聖バルテルミーの虐殺に際して、ユグノーをすべて殺戮せよとのシャルル9世の命令に対し、こうした行為を卑劣として拒んだドルト子爵である(第4編第2章)。貴族は「君公は決してわれわれの名誉を傷つけるような行動をわれわれに命じてはならない」との原理に基づいて行動する限りで、君公から独立している。もっとも、名誉を重んずる気風には、負の側面もある。1589年から1610年までのアンリ4世の21年間の治世だけで、約1万人が名誉をかけた決闘で命を落としたと言われている(cf. Daniel Solove, The Future of Reputation (Yale University Press,2007),p.114)。

*19:モンテスキュー憲法思想の核心にあるのは権力分立論ではなく、むしろ、温和な政体の擁護を通じて市民の自由を保障する点にあったことは、オリヴィエ・ボーも指摘している。See Olivier Beaud, 'La notion de costitution chez Montesquieu: Contribution a l'etude des rapports entre constitution et constitutionnalisme', in Staat, Souveranitat, Verfassung, eds. D. Murswiek, U. Strost, and H. Wolff(Duncker U. Humblot, 2000),pp.442-46.

*20:モンテスキューの権力分立論については、長谷部恭男『Interactive憲法』(有斐閣、2006)第7章参照。利害を異にする各階層が、立法過程において各自の利益を守ろうとして利己的に行動する結果、すべての階層が満足する法律のみが産出される。各行動主体の利己的な行動を社会全体の公益に結びつけるための権力の均衡が、モンテスキューの言うイギリスの憲法の核心である。

*21:モンテスキューは、「自由とは法律の許すすべてをなす権利」であると述べるが(第11編第3章)、この自由の定義は、きわめて抑圧的な実定法の支配とも両立しうる。法律が十分に人民の権利を守り、かつ、政治権力の行動を予測可能なものとする内容のものであることが、この定義の暗黙の前提となっているはずである。

*22:ルソー=ジャコバン型国家像については、樋口陽一『近代国民国家憲法構造』(東京大学出版会、1994)、とくにその第?章を参照。多様な中間団体の活動を通じて人民の自由を保障するトクヴィルアメリカ型国家像と対比される。

*23:シュミットの制度保障の観念については、長谷部・前掲注20)第13章参照。

*24:樋口陽一「“コオル(Corps)としての司法”と立憲主義」同『憲法 近代知の復権へ』(東京大学出版会、2002)136頁は、近代立憲主義の伝統の中で大学と法曹とが特権集団として特異な地位を占めることを指摘する。

*25:リスク社会論と法律学とのかかわりについては、さしあたり長谷部恭男編『法律から見たリスク〔リスク学入門(3)〕(岩波書店、2007)所収の諸論稿を参照。2011年3月に発生した福島第一原子力発電所の事故は、予測不能な人工のリスクが現実化した典型例である。

*26:トクヴィル〔松本礼二訳〕『アメリカのデモクラシー(2)(下)』(岩波書店、2008)267頁。

*27:この点は、Anelen de Djin, French Political Thought from Montesquieu to Tocueville: Liberty in a Levelled Society?(Cambridge University Press, 2008)が強調している。

*28:トクヴィル・前掲注26)268頁。結社の自由をプレスの自由も、人々の自由を守る手段としての価値を持つにとどまり、それ自体が目的でないことに注意が必要である。

*29:トクヴィル・前掲注26)256頁。

*30:ニーチェにとって民主主義とは、政治機構の堕落形態であるだけでなく人間の堕落形態でもある。近代における人間の矮小化と退化とが人間を完全な畜群と化し、さらには「平等な権利と請求権」を持つ矮獣へと至りうることは疑いの余地がない(ニーチェ〔木場深定訳〕『善悪の彼岸』〔岩波書店、1970〕159〜61頁〔第5章203節〕)。

*31:トクヴィル・前掲注26)257頁。ピエール・ロザンヴァロンが示唆するように、権力が一元化されたジャコバン型国家の下で可能な途は、権力への絶対服従か、あるいは全面的な反乱である(Pierre Rosanvallon, Counter-Democracy: Politics In Age of Distrust(Cambridge University Press, 2008),pp.141-42)。

*32:本書第14章「一般意志」122頁で述べたように、こうした状況が共和政体のデフォールトであることについては、ルソーも同意している。ルソー=ジャコバン型国家が良好に機能するためには、人間性をも変革しうる天才的立法者の出現が条件となる。また、NHK放送文化研究所世論調査部が2009年11月に実施した「政治と社会に関する意識・2009」調査によると、社会にいかにかかわるかという「市民意識」について、1.社会のために必要なことを考え、みんなと力を合わせ、世の中をよくするように心がけている(公共市民)、2.自分の生活とねかかわりの範囲で自分なりに考え、身近なところから世の中をよくするように心がけている(私生活市民)、3.決められたことには従い、世間に迷惑をかけないように心がけている(協調市民)、4.自分や家族の生活を充実させることを第1に考え、世間のことにはかかわらないよう心がけている(私民)のうち、「協調市民」が45%と最大で、以下、「私生活市民」36%、「公共市民」6%、「私民」5%であった。市民意識を持つのは合わせて41%と半数以下である(NHK放送文化研究所『放送研究と調査』2010年4月号3〜4頁)。

*33:イアン・マキューアン小山太一訳〕『土曜日』(新潮社、2007)の主人公ヘンリー・ペロウンが言い放つように「戦争は始まらずにはいないんだ。国連が反対しようと、政府が何と言おうと、大規模なデモが行われようと。大量破壊兵器が存在しようとしまいと関係ない。進攻は既定事項だし、軍事的に言えば成功は約束されている。サダムが倒され、この世に存在したうちで最も邪悪な政府が倒される」(同書230頁)、というわけである。

*34:カール・シュミット〔尾吹善人訳〕『憲法理論』(創文社、1972)300〜301頁。街頭運動と政策決定との乖離については、'Tony Judt talks to Kristina Bozic about the way things are and how they might be', London Review of Books, Volume 32, Number 6, 25 March 2010,p.14参照。