ハワード・ジン『肉声でつづる民衆のアメリカ史・上巻』目次
図書館で借りてきた。
本書は
支配する側からではなく民衆の視点に貫かれた名著『民衆のアメリカ史』の元になった民衆の肉声を伝える手紙、演説、文学作品……。ときに権力の横暴や戦争に対して怒り、ときに民衆同士の心温まる交流を語る珠玉のアンソロジー。
肉声でつづる民衆のアメリカ史 内容紹介
という内容の本なのだが*1、とても貸し出し期間中に読みきれる厚さではなく、そもそも頭から通読するようなタイプの本でもない。むしろ買って手元に置いておきたい本なのである。しかしいかんせん高価すぎる*2。
そこでせめて(といっては何だけれど)目次だけでもここにアップしてみることにした。各節タイトルのあとに付されている数字は、その文書が書かれた(発表された)年月日である。
とりあえず上巻の分だけ。
目次だけでも圧倒される。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第1章 コロンブスとラス・カサス
1 クリストファ・コロンブス『航海日誌』*3 1492.10.11-15
2 バルトロメ・デ・ラス・カサス、コロンブス伝説にかんする二つの文書(1542年と1550年)
(a)『インディアスの破壊についての簡潔な報告』*4 1542
(b)『インディオ擁護論』*5 1550
3 エドゥアルド・ガレアーノ『火の記憶』*6 1982
第2章 初期の奴隷制と奴隷の反乱*7
1 奴隷反乱にかんする手紙三通*8
(a)ロンドンのブーン氏への、差出人不明の手紙 1720.6.24
(b)バージニア州ピーターズバーグからの手紙 1792.5.17
(c)秘密を守る同志リッチモンド(不詳)から、秘密を守る同志ノーフォーク(不詳)への手紙 1793
2 奴隷制に反対する請願書四通*9
(a)“フェリックス”、解放を求める奴隷の請願書 1773.1.6
(b)ピーター・ベステスト他の奴隷、解放を求める請願書 1773.4.20
(c)北アメリカ最高司令官トーマス・ゲイジへの「大勢の黒人の請願書」 1774.5.25
(d)マサチューセッツ邦議会への「大勢の黒人の請願書」 1777.1.13
3 ベンジャミン・バネカー、ジェファソンへの手紙*10 1791.8.19
第3章 植民地における年季奉公人の、隷属と反乱*11
1 リチャード・フレソーン「イギリスに戻れるなら手足をもがれてもかまわない」*12 1623.3.20-4.3
2 『バージニア植民地におけるベーコンの反乱、その勃発・進展・終結の真相。国王陛下の委員会におけるもっとも謙虚で公平な報告書』*13 1677
3 ニューハンプシャー植民地議会の、マスト材反乱についての宣言*14
1734
4 マサチューセッツ植民地総督ウィリアム・シャーリー、通商院への手紙「海軍提督ノールズに対する暴動について」*15 1747
5 『ゴットリーブ・ミッテルベルガーの旅−一七五○年にペンシルバニアに旅立ち、一七五四年に帰還』*16 1754
6 ニューヨーク植民地の借地人暴動についての記事*17 1766.7.14
第4章 アメリカ独立革命への道*18
1 マサチューセッツ植民地の副総督トーマス・ハチンソン、ボストンにおける印紙税法への反対運動を語る*19 1765
2 サミュエル・ドラウン、ボストン虐殺事件についての証言*20 1770.3.16
3 ジョージ・ヒューズ、ボストン茶会事件の回想*21 1834
4 ニューヨークの職工による、独立宣言*22 1776.5.29
5 トーマス・ペイン『コモンセンス』 1776
第5章 独立革命いまだ成らず―革命軍兵士の反乱
1 ジョーゼフ・クラーク、スプリングフィールドの反乱についての手紙 1774.8.23
2 ジョーゼフ・プラム・マーティン『独立革命軍兵士の、冒険と危険と苦難の物語』 1830
3 サミュエル・デウィーズ『革命軍内部の反乱鎮圧は、残酷な手順をふんで完璧におこなわれた』 1844
4 ヘンリー・ノックス、ワシントンへの手紙 1786.10.23
5 “パブリアス”(ジェームズ・マディソン)『連邦主義者(フェデラリスト)』第一○章 1787.11.23
第6章 初期の女性解放運動
1 マリア・スチュワート「私たちがブドウの木を植えたのに、果実を食べたのは彼らだ」 1833.2.27
2 アンジェリーナ・E・グリムケ・ウェルド「北部の力が奴隷制のバスティーユをぐらつかせた」 1838.5.17
3 ハリエット・ハンソン・ロビンソン「女工が初めてストに立ち上がったとき」 1898
4 S・マーガレット・フラー・オッソリ『一九世紀の女性』 1845
5 エリザベス・ケイディ・スタントン、セネカフォールズ大会「女性の独立宣言」 1848.7.19
6 ソジャーナ・トゥルース「あたしが女じゃないっていうの?」 1851
7 ルーシー・ストーンとヘンリー・B・ブラックウェル、結婚式で読み上げた「男女同権」声明 1855.5.1
8 スーザン・B・アンソニー「投票権がないからこそ投票に行ったのです」 1873.6.19
第7章 インディアン強制移住
1 テクムセ「白人が求めるのは唯ひたすら狩猟地すべてを奪うことだけ」 1811-12
2 チェロキーの強制移住にかんする二つの文書(1829年と1830年)
(a) チェロキー国の外交文書「土地の蚕食はインディアン交易法に反する」 1829.12
(b) チェロキー議会総会「強制移住にかんするアメリカ国民への訴え」 1830.7.17
3 ブラックホーク、降伏演説 1832
4 ジョン・G・バーネット「一兵卒がみたチェロキーの強制移住」 1890.12.11
5 ネズ・パース族首長(チーフ)ジョーゼフ、二つの陳述(1877年と1879年)
(a)ジョーゼフ首長、降伏宣言 1877.10.5
(b)ジョーゼフ首長、首都ワシントンへの旅を語る 1879
6 ブラックエルク「ひとつの民の夢が死んだ」 1932
第8章 奴隷州を拡大するためのメキシコ戦争
1 イーサン・アレン・ヒッチコック大佐の日記 1845.6.30-1846.3.26
2 メキシコ大統領ミゲル・バラガン「入植者によるテキサスの併合・植民地化を許すな」 1835.10.31
3 ファン・ソト、脱走を呼びかけるビラ 1847.6.6
4 フレデリック・ダグラス「メキシコ戦争は奴隷制拡大の戦争だ」 1849.5.31
5 『北極星(ノース・スター)』紙の論説「これは奴隷所有者ポーク大統領の戦争だ」 1848.1.21
6 ヘンリー・デイビッド・ソロー『市民的不服従』 1849
第9章 奴隷制に対する抵抗と反乱
1 デイビッド・ウォーカー『訴え』 1830
2 ハリエット・A・ジェイコブズ『ある奴隷少女の自伝』 1861
3 新聞広告「ジェイムズ・ノーコムの逃亡奴隷ハリエット・ジェイコブズを逮捕した方に礼金進呈」 1835.6.30
4 ジェームズ・R・ブラッドリー、リディア・マリア・チャイルドへの手紙 1834.6.3
5 セオドア・パーカー師「自由州ボストン市は奴隷州の臣民か」 1854.5.26
6 奴隷による、元の奴隷所有者への手紙二通(1844年と1860年)
(a)ヘンリー・ビブ、ウィリアム・ゲイトウッドへの手紙 1844.3.23
(b)ジャーメイン・ウェズリ・ロウグエン、サラ・ロウグへの手紙 1860.3.28
7 フレデリック・ダグラス「黒人にとって7月4日とは?」 1852.7.5
8 「ジョン・ブラウンの最後の演説」 1859.11.2
9 オズボーン・P・アンダーソン『ハーパーズフェリー襲撃事件の生き証人』 1861
10 マーティン・ディレイニー「黒人の同胞諸君、奴隷制は終わった」 1865.7.23
11 ヘンリー・マックニール・ターナー「肌が黒いというだけで現職議員の資格を剥奪できるのか」 1868.9.3
第10章 南北戦争と階級闘争
1 ニューヨーク小麦粉騒動、ある目撃者の証言 1837.2
2 ヒントン・ローワン・ヘルパー『このままでは南部は破滅する』 1857
3 “職人”「財産資格による投票は選挙権の剥奪だ」 1863.10.13
4 ジョエル・タイラー・ヘッドリー『ニューヨーク大暴動』 1873
5 南北戦争中の南部にあった不満について、文書四点(1864-1865年)
(a)ジョージア州サバンナのパン暴動についての投書 1864.4
(b)自称“兵役免除者”「行くべきか、行かざるべきか」 1864.6.28
(c)O・G・G「兵士の妻がなぜトウモロコシ暴動か」 1865.2.17
(d)『デイリー・サン』紙「この戦争で足蹴にされるのは誰か」 1865.2.17
6 J・A・ダカス『一八七七年アメリカ大ストライキ』 1877
第11章 南北戦争後のうわべの繁栄、貧困化に反撃する民衆、そして人民党の結成
1 ヘンリー・ジョージ「貧困という罪」 1885.4.1
2 オーガスト・シュピーズ、ヘイマーケット事件の法廷陳述 1886.10.7
3 「ティボドーの虐殺―冷酷に殺された黒人労働者たち」 1887.11.26
4 アーネスト・リヨン師ほか「白人による恐怖支配に抗議する」 1888.8.22
5 メアリー・エリザベス・リース、二つの演説(1890年頃)
(a)「ウォール街がこの国を支配している」 1890頃
(b)「『抵当物件の明け渡し』で月に五〇〇軒の家が奪われている」 1890
6 アメリカ人民党のオマハ綱領 1892.7.4
7 J・L・ムーア師「白人と手をつなぐ黒人農民同盟」 1891.3.7
8 アイダ・B・ウェルズ=バーネット「リンチ法」 1893
9 プルマン鉄道車輛会社のストライキ参加者による、声明文 1894.6.15
10 エドワード・ベラミー『かえりみれば−二○○○年から一八八七年を』 1888
第12章 帝国の拡大は神から与えられた「明白なる使命」
1 カリスト・ガルシア、ウィリアム・R・シャフタ将軍への手紙 1898.7.17
2 アフリカ系アメリカ人による、反帝国主義の文書三編(1898-1899年)
(a)ルイス・H・ダグラス「フィリピン侵略をめざすマッキンレー大統領へ」 1899.11.17
(b)アフリカンメソジスト監督教会ジョージア州アトランタ伝道部「黒人は外国侵略の軍隊に入るべきではない」 1899.5.1
(c)I・D・バーネットほか、マサチューセッツ州の黒人によるマッキンレー大統領への公開書簡 1899.10.3
3 サミュエル・クレメンス(別名マーク・トウェイン)「モロ族虐殺にかんする論評」 1906.3.12
4 スメドレー・D・バトラー『戦争はペテンだ』 1935
第13章 社会主義者と世界産業労働者組合(ウォブリーズ)
1 マザー・ジョーンズ「炭鉱労働者の天使」 1903.3.24
2 アプトン・シンクレア『ジャングル』 1906
3 W・E・B・デュボイス『黒人の魂』 1906
4 エマ・ゴールドマン「愛国主義―自由への脅威」 1908
5 「ローレンスの繊維工場労働者のストライキ宣言」 1912
6 アートゥロウ・ジョバニッティ、陪審員への訴え 1912.11.23
7 ウディ・ガスリー「ラドローの虐殺」 1946
8 ジュリア・メイ・コートニ「ラドローを忘れるな」 1914.5
9 ジョー・ヒル「俺の遺言」 1915.11.18
第14章 第一次世界大戦にたいする抵抗と反戦運動
1 ヘレン・ケラー「反戦ストライキ」 1916.1.5
2 ジョン・リード「誰の戦争か」 1917春
3 「IWWは、なぜアメリカに愛国主義的でないのか」 1918
4 エマ・ゴールドマン、「良心的兵役拒否」裁判における最終陳述 1917.7.9
5 ユージン・デブス、反戦演説二題(1918年)
(a)オハイオ州カントンでの演説「宣戦布告は国民投票で」 1918.6.16
(b)法廷陳述「下層階級が存在するかぎり私もその一員だ」 1918.9.8
6 ランドルフ・ボーン「戦争は国家の健康法である」 1918
7 e・e・カミングズ「僕はオラフを歌う 明るくでっかい奴」 1931
8 ジョン・ドスパソス「一アメリカ人の身体」 1932
9 ダルトン・トランボ『ジョニーは戦争に行った』 1939
第15章 ジャズ・エイジと一九三〇年代の民衆蜂起
1 F・スコット・フィッツジェラルド「ジャズ・エイジの残響」 1931
2 イップ・ハーバーグ「おい兄弟、恵んでくれよ、一〇セント」 1932
3 ポール・Y・アンダーソン「催涙ガスと銃剣と投票」 1932.8.17
4 メアリー・リクト「スコッツボロ事件の弁護活動を回想する」 1997.2.15
5 ネッド・コブ(“ネイト・ショウ”)『神のすべての危険』 1969
6 ビリー・ホリデイ「奇妙な果実」 1937
7 ラングストン・ヒューズ、詩二編(1934年と1940年)
(a)「ローズベルト小唄(バラード)」 1934
(b)「大家さん小唄(バラード)」 1940
8 バルトロメオ・バンゼッティ、法廷での最終陳述 1927.4.9
9 ビッキー・スター(“ステラ・ノウビキ”)「組合ですら女は裏方」 1973
10 シルビア・ウッズ「闘いなしに自由は得られない」 1973
11 ローズ・チャーニン、一九三〇年代のブロンクスにおける立ち退き反対運動 1949
12 ジェノラ(ジョンソン)ドリンジャー『GMフリント工場の占拠―座り込みストライキ(一九三六〜一九三七年)を振り返る』 1995.2
13 ジョン・スタインベック 『怒りの葡萄』 1939
14 ウディ・ガスリー「この国は俺たちの国」 1940.2
*1:ハワード・ジンhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%B3という歴史家については、Twitterで@amardayoさんに教えていただいた。こちらhttp://twilog.org/tweets.cgi?id=qua_gma&word=amardayoの2012年6月23日、8月16日、8月17日参照
*2:上下巻あわせて2万円近くする。http://www.akashi.co.jp/book/b102863.html http://www.akashi.co.jp/book/b102864.html このボリューム(上下巻あわせて1400ページ近く!)からすると、ペーパーバックとはいえ原書が2000円足らずで入手できるらしいhttp://www.amazon.co.jp/Voices-Peoples-History-United-States/dp/1583229167/ref=pd_sim_sbs_b_1というのも、それはそれで信じがたい。
*3:「幾世代ものアメリカ人が、教科書や学校や大衆文化から学んだ歴史のなかでも、クリストファ・コロンブスの話ほどひどく歪曲されたものはない。一般的なコロンブス像は、自分がいずれ見つけるものを知らずに大洋を突っきって進み、当時は未知であった大陸に偶然ぶつかった英雄的人物・冒険家・熟達した航海者、というものである。全くそのとおりであるが、その話にすっぽり抜け落ちている事柄がある。コロンブスがバハマ諸島に上陸したとき、彼と部下の船員が、平和的で物惜しみしない島の先住民に歓迎されたにもかかわらず、黄金探しに熱中しはじめ、情け容赦なく先住民を奴隷化し、悲惨と死をもたらした、という事実である。コロンブスを遠征に駆りたて、上陸後そうした行動に突き動かしたのは、利益への飽くなき欲求にほかならなかった。」「そこで遭遇した先住民…を、彼は人間でないとみなし…、黄金の在処を吐けと拷問にかけた。彼は何百人もの先住民を拉致・誘拐して奴隷化し、全くひどい条件下の鉱山で強制労働させ、黄金を探させた。それがエスパニョーラ島…に住んでいたインディアンの絶滅の始まりだった。ヨーロッパ人による西半球征服の出発点だった。」(同書(以下略)p37-38)
*4:「理想化され美化されてきたコロンブス像が、近年、見直されはじめている。…すなわち、…黄金を手に入れるためにエスパニョーラ島の先住民を拉致し殺傷したひととして彼を扱う見方が出てきたのである。この新しい見方の根拠は、主に、コロンブスの同時代人であり、エスパニョーラ島の出来事を目撃した、バルトロメ・デ・ラス・カサスから来ている。」(p47)
*5:「バルトロメ・デ・ラス・カサスは、先住民インディオへの残虐行為を止めさせようと、スペイン国王を長く説得した。一五五○年、バリャドリード市で開催されたスペイン国王の審議会で、ラス・カサスと聖職者ファン・ヒネス・デ・セプルベダとの論争がおこなわれた。論争の中心問題は、インディオは人間だから人間として扱うに値するか、人間以下だから奴隷にするのがふさわしいか、という点にあった。」(p59)
*6:「ウルグアイ人のジャーナリストで急進的な作家であるガレアーノは…多数の史料と想像力を駆使しながら、当時の人々の苦境を再構成し、コロンブスの多くの神話を覆している。」(p63)
*7:「一六一九年に最初の黒人が力づくで運びこまれたのは、バージニア州ジェームズタウンの白人入植地で働かせるためだった。…当時、バージニア入植者は食糧生産のための労働力を求めていた。というのは、一六○九年から一○年の冬、入植地バージニアは飢餓のため人口が激減し、五○○人のうち六○人しか生き残らなかったからだ。…アフリカで拉致されて故郷からはるばる運びこまれた、寄る辺ない黒人なら使えるだろう、と入植者は思った。…最初の黒人二○人が、西インド諸島から鎖につながれて、ジェームズタウンへと運ばれた。」(p74)
*8:「奴隷はこのような運命を甘受しなかった。次の三通の手紙が示すように、肉体的反乱をふくむ多くの方法で抵抗した。」(p74)
*9:「奴隷制反対の史料は、奴隷が奴隷的身分からの解放を求めて州議会に提出したさまざまな請願書のなかに、さらに多く見出すことができる。」(p78)
*10:「ベンジャミン・バネカーは解放奴隷の息子であった。彼は数学と天文学を自学し、日蝕を予言し、新首都ワシントンの都市計画立案者に任命された。そして…トーマス・ジェファソンに手紙を書き、奴隷制の終結を求めた。」(p87)
*11:「イギリスや北ヨーロッパ諸国では、貧乏人の絶望が、商人や船主にとっては莫大な利益となった。商人や船主が手筈を整え、男や女を奉公人として働かせようと、アメリカへ輸送したのである。運ばれた人々は年季奉公人と呼ばれ、五年から七年分の給料を渡航費の支払いに当てねばならなかった。アフリカからの黒人奴隷と同様、船にできるだけ大勢が詰めこまれ、幾月も船旅を続けた。大勢が船内で病気にかかって死んだ。とくに子どもが多く死んだ。生き延びてアメリカに上陸すると、奴隷と同様に売買された。その時点から、彼らの生活は主人によって完全に支配された。女性は性的虐待をうけ、男性は命令に従わないからといって殴られ鞭で打たれた。年季奉公制は一七世紀から一八世紀を通じて続き、年季を終えて自由になった人々が、植民地の労働者階級の大部分を占めるまでになった。」(p94)
*12:「年季奉公人リチャード・フレソーンがジェームズタウン入植地にやってき」て、「まもなく自ら体験した災難について、両親あてに手紙を書いた。」(p94)
*13:「一六七六年、バージニア植民地でナサニエル・ベーコン率いる白人開拓民・奴隷・年季奉公人の反乱がおこった。…反乱はきわめて危機的様相を呈し、植民地総督は、燃え上がるジェームズタウンから逃げ出さねばならなかった。…雑多な集まりからなる反乱軍の不満要因はさまざまであった。入植者は、インディアンの攻撃から自分たちが十分に保護されていないと感じていた。奴隷と年季奉公人は、バージニアの政治指導者と自分たちの主人から、ひどく抑圧されていると感じていた。」(p98)
*14:「植民地住民の生活状態は、一般に貧しいままで絶望的だった。一方で住民は、少数者の巨大な土地所有と富の蓄積を目の当たりにしていた。…ニューハンプシャー植民地の貧しい民衆は、燃料が必要となり、富裕者の土地の木を伐採した。イギリス王領の森林地監督官…は、地方の町の住民が伐採犯罪者の発見に協力してくれないことに気づいた。彼は手兵を少人数あつむたが、一七三四年にエクセタの町に到着したとき、その手兵は地方住民の集まりに攻撃されて打ちのめされた。」(p103)
*15:「アメリカ独立革命前の二、三○年間、植民地じゅうで強制徴用に反対する暴動が増加した。イギリス海軍が、水兵補充のために、植民地の若者を徴用したからだ。…この海軍提督ノールズに対する暴動は、独立革命前のこの種の事件のなかで初期のものである」(p104)
*16:「ゴットリーブ・ミッテルベルガーは、一八世紀中葉に書いた以下の文章で、年季奉公人の窮状を詳細に描いている。」(p110)
*17:「ニューヨーク植民地では、イギリス国王が土地の莫大な区画を、オランダ人のバンレンセラー家に下付した。借地農は封建的所領の農奴のように扱われた。バンレンセラーが領有権を主張した土地は、貧しい農民が占有していたものだった。土地はインディアンから買ったものだ、と農民は主張した。その結果、バンレンセラーの手兵と地元農民のあいだで、次々と衝突がおこった。」(p116)
*18:「一七六○年には、各邦の植民地政府の転覆をねらった暴動が一八件おきた。…そのような反抗的エネルギーは、すぐにイギリスへの反抗へと方向転換が謀られはじめた。植民地有力者が、イギリス支配からの解放を好都合だと考えたからだった。…仏英が戦った七年戦争は、一七六三年にフランスが敗北して終結し[たが、]戦費を賄う金が必要となり、イギリスはそれを植民地に期待した。…[一方で]フランスという邪魔者がいなくなると、植民地指導層はイギリスの保護を必要としなくなった。…こうして対立の要因がいくつも生じた。」(p120)
*19:「イギリスへの怒りは、印紙税法という課税への反対運動となって、露骨に表明された。[結局]さまざまな暴力的反応が、イギリス議会に同法を撤回させる、という結果をもたらした。」(p120)
*20:「一七七○年のボストン虐殺事件の背景には、イギリス軍のボストン駐留にたいする強い反発があった。この事件そのものは、イギリス軍兵士によって仕事を奪われた縄製造職人の怒りから始まった。イギリス軍兵士が、集まった群集に発砲し、民衆五人を殺した。」(p124)
*21:「フランスとの七年戦争で負債を抱えるようになったイギリスは、北米植民地に高額の茶税を課した。…この課税はひどく不人気となり、植民地が「代表なき課税」に従わされているという事実を象徴するものとなった。国王が土地の莫大な区画を…独立を主張する多くの人々は、イギリス茶の不買運動を大声で叫びはじめた。一七七三年末、茶を積んだイギリス船が多数ボストン港に向かっていた。…サミュエル・アダムズは、船団のうち三隻を洋上に追い返したが、マサチューセッツ植民地総督は船団の入港を許可し、船荷に関税を支払うべしと主張した。…一二月一六日、先住アメリカ人に変装した群集が、船団を襲撃し、積荷を海に投げこんだ。」(p127)
*22:「トーマス・ジェファソンの独立宣言に先立って、少なくとも九○を数える邦[訳注:のちの州]と地方の、さまざまなかたちの独立宣言があった。…ニューヨークの職工会館で職工たちが署名した独立宣言は、そのすばらしい実例のひとつである。」(p131)