クイズ番組と学校のテスト

Qさま!」というTV番組があって、漢字とかについての知識を問うクイズ番組なのだけど、2チームに分かれて各チームのメンバーに順繰りに出題し回答させ、順番が回ってきたメンバーが解答できないか間違えるかすると、それ以降のメンバーに回答の機会が回ってこない、という形式でおこなわれている。何人が答えられたかでチームに入る得点の多寡が決まる。もしくは、全員が答えられないとチームは得点できない。
この、問題に答えられなかったり間違えたりしたメンバーに、チームの勝敗の責任がかかるようになっているシステムが不快。関係ないけどオシム氏がPKで勝敗を決めるシステムに批判的だというのにも同じ気持ちがあるんじゃないか。よくしらないが。
 
ことに今日の放送では、同じ人が何度も連続して解答を間違えていて、彼女はとても辛そうに「すみません、すみません」とあやまっていた。すごく嫌な気分になった。
こういう番組が企画・製作・放送され、そしてそれが視聴され楽しまれている、ということと、学校という場所において、学習の成果や知識の有無によって序列化や選別が行われている、ということは、無縁じゃないと思う。
 
ということをもやもやと考えているところに、「たすけない。孤立させる。そんなテストは もう いらない。 - hituziのブログじゃがー」という記事を読んだ。とても共感したし、また、すっきりした。
 
テストが、個々をあくまでも他人に対し優越することにまい進させるシステムなら、件のクイズはたすけあいを禁じたうえで集団競技の勝敗に奉仕させ「個人の責任」を浮かび上がらせるシステム。こういう違いはあるけれど、たすけあいを禁じ個々を孤立させる、という状況を作り出している点が、両者の共通点。ひつじさんのブログ記事の強調している点とは異なるけど、私は両者にシステムを作り出したものの悪意を感じる。にもかかわらずそのことが忘れ去られ、システムそのもののひどさは放置される一方で、常にシステムの中で作り出された弱者が責めを負わされる。みんなそれを当然だと思ってて、それを楽しんだりすらする。「これが現実なんだ」ってしたり顔の人もあらわれる。
こういうところが、学校で行われるテストや、件のクイズ番組の不快なところなのだ。
ひつじさんの記事は、そういうシステムによって忘れさせられている「たすけあい」を思い出させてくれる。そこが爽快だし、共感した。