日本とアメリカ合衆国の判決文の違い

アメリカの連邦最高裁判決*1をぼちぼち読んでいるんだけど、連邦最高裁の判決文は、私ていどの語学力*2の人間でも、辞書さえあれば何とか読んで大まかな意味は取れる。
日本の裁判所の書く判決文を、私ていどの語学力*3の外国人が読んでも、絶対にこうは行かない。日本の裁判所の書く判決文は非常に読みづらいのだ。
そのほとんどが漢字で構成される独特の法律用語は、日常で使う用語との乖離がはなはだしい。接続語なども非常に独特である*4。異常なほど長い文が頻出する。段落分けも少なく、文面がごちゃごちゃした文字の塊となって目を圧迫する(ここでも漢字の多さが大きな要因)。ひとことで言えば、官僚の作文めいていて、リーダビリティへの配慮を徹底して欠いている。最近はかなりましになってきたと思うが、それでも法律に縁のない一般人が読むことを想定していない文章だと思う*5
これには日本語そのものの性質など歴史的要因が大きくはたらいている面もあるから、単純な日米比較はできない。しかし日本の裁判所の判決文、もう少し何とかならないか、と思う。 

*1:NEW YORK TIMES CO. v. SULLIVAN, 376 U.S. 254(1964)

*2:大学在学中以来、10年以上ほとんど英語の文章に接していない

*3:という仮定は、そもそもの日本語の習得しづらさを無視していて、ナンセンスかもしれないが。

*4:「けだし」なんて言葉、判決文以外ではほとんどお目にかかれない

*5:この傾向は時代をさかのぼるほどひどくなる。明治時代の判例などになると、漢字(旧字体)カタカナ混じり文・文語体・句読点なし・段落分けほぼなし、で、ほとんど読むのを拒絶されている気分になる。