「相手を不快にする権利」について調べ、途中経過

こちらのつづき。
烏賀陽(うがや)弘道氏の「言論の自由には、相手を不快にする権利も含まれる。(1964年のアメリカ連邦最高裁裁判所判決) 」というツイートは本当に正確なところを述べているのか?という疑問についての調べの途中経過報告である。
といっても、サリバン事件判決原文はまだほとんど読んでいない。id:tari-G氏よりまたもご教示いただいた*1翻訳全文もまだ入手できていない。つまり、ほとんど進んでいないのだが、以下数点のみ報告しておきたい。
  

英米判例百選 [第3版]』

英米判例百選 [第3版]』 *2のサリバン事件判決を紹介する2ページ(同50,51ページ)のコピーを入手した。
そこで紹介されている判旨(翻訳)はわずか2000字ほどのダイジェストに過ぎないが、ここには「言論の自由には、相手を不快にする権利も含まれる。」などと述べている部分はなかった。
 

烏賀陽弘道/西岡研介『俺たち訴えられました!-SLAPP裁判との闘い』(河出書房新社

もしかしたら烏賀陽氏は自著でその点について詳しく述べているのかもしれない。質問されてキレたのも自分の本を読めばすぐ分かることを聞かれたから、という可能性がある。
烏賀陽氏の著作で、この点に関連していそうなものは、今のところ今年の3月に出版されたばかりのこの一冊だけである。図書館で借りてきてざっと読んでみた。なかなか面白かったこの本自体の感想を記すのはまた別の機会に譲ることとして、ここでは「相手を不快にする権利」に言及する「アメリカ連邦最高裁判所判決」に触れている部分のみ抜き出しておく。
この本は大部分が共著者である烏賀陽氏と西岡氏の対談*3で構成されているが、同書の205ページから206ページにかけての烏賀陽氏の発言にこう言っているところがある(強調引用者)。

アメリカでこれだけ反SLAPP条項*4が進んだのは「言論の自由」に対する保護の手厚さやと思う。「『The First Amendment』、つまり合衆国憲法修正第一条で保障された『言論の自由』は何にもまして重要な民主主義の基礎であって、何にもまして手厚く守られなければいけない」という社会合意がある。連邦最高裁判例でも「言論の自由というのは相手、および世論を不快にする権利も含まれる」と堂々と書いてある。

ここだけである。この本でも、どの判決がそう言っているのか特定していないばかりか、判決の出された年すら言及していない。結局、烏賀陽氏は著書においても同様のことを述べており、かつ、出典を曖昧にしていることが明らかになっただけであった。
それにしても、この点をあえて曖昧にする理由は何かあるのだろうか。判決文(しかも連邦最高裁の)という最も公的性格の強い文書について典拠をはっきりと示さないのは解せないふるまいである。質問されてキレた点も含めて、不可解さがぬぐえない*5
 

コメント・ブコメでいただいた指摘について

ブコメid:lovelovedog氏が「 判決文を『unpleasant』で検索。」と指摘されており、これはやっていなかった*6ので、早速やってみた。
すると、

Thus we consider this case against the background of a profound national commitment to the principle that debate on public issues should be uninhibited, robust, and wide-open, and that it may well include vehement, caustic, and sometimes unpleasantly sharp attacks on government and public officials.

という一箇所のみがヒットした。これはコメント欄にてrijin氏が指摘する部分でもあり、また、サリバン事件判決の判旨が紹介されるときによく引用される部分でもある*7
 
rijin氏へのコメント欄での返答にも書いたが、実は私ももしかしたらそこかな、と思っていた(負け惜しみではない…ほんとうなのだ)。
ただ、その部分を訳すと、
「したがって、私たちは、『公的問題についての議論は率直で力強く広く開かれたものでなければならず、かつ、政府や公職にある者に対する激しく痛烈で時に不快なほど辛辣な攻撃を含みうる』という原理への国民の強い思い入れを背景としつつ、本事例について考慮するものである。」
となると思われるが、この文から「言論の自由には、相手を不快にする権利も含まれる」までは率直に言ってかなり距離がある。
またそもそもこの文が「公的問題についての、政府や公職にある者に対する言論での攻撃」という限定されたケースについて述べたものであることも忘れてはならない。「言論の自由には、相手を不快にする権利も含まれる」というごく簡単な文からは、このような限定を読み取ることはできない。
 
ようするに、もし仮に烏賀陽氏がこの部分を読んで「言論の自由には、相手を不快にする権利も含まれる」と合衆国連邦最高裁が言った、と解しているのだとしたら、それはかなり粗雑な理解だと言わなければならない。
 
ただ、私自身はさすがにそれはないのではないか、と思っている。特に根拠があってそう思っているわけではないが、烏賀陽氏の書き方から(上記の烏賀陽氏共著書引用部分参照)、ここを指しているんじゃないのではないか、他にもっと烏賀陽氏の言葉通りに述べている部分がある(と烏賀陽氏が思っている?)のではないか、と感じるのである。
 
今回は、とりあえずここまでとしたい。

*1:http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101117/p1#c

*2:有斐閣<別冊ジュリスト139>,藤倉皓一郎・木下毅・高橋一修・樋口範雄編

*3:烏賀陽氏の言葉によれば、対談ではなく「お互いへのインタビュー合戦」

*4:恫喝訴訟を防止するために合衆国各州で制定された法のこと

*5:まあ、この本の性格からして、あまり厳格にそのような正確さを追求していないだけなのかもしれない。ただ、ならばなぜ質問されてキレたのかは分からないが。

*6:ちなみにページ検索の手法を思いつかなかったのではなく「不快」という日本語に相当する英語が思いつかなかった。私の英語力はこの程度である。

*7:上記の『英米判例百選 [第3版]』もこの部分を引用しているし、サリバン事件判決を紹介する在日合衆国大使館のサイトでもそうしている(http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-govt-rightsof4.html参照)。