ヘイトスピーチ規制がマイノリティの抗議的表現の摘発を招くのは必然か(tari-Gさんへのお返事、part2)

以前こちらにアップしたはてなhaiku」でのtari-G氏とのやり取りは、以降以下のように展開した。

http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9258658834641833355
http://h.hatena.ne.jp/quagma/9234082553158545707
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9234100145665692301
http://h.hatena.ne.jp/quagma/9234100145911770156
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9236563052140979102
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9259274564384171654
http://h.hatena.ne.jp/quagma/9234082574460918619
私は先日、正月のtari-G氏の振舞いを批判するエントリーを書いたが、上記リンク先におけるやり取りはそれ以前のものである。
見ていただければわかるように、私には一点「宿題」が残っている。
  
上から二番目のhaikuで、私は先日のエントリーで私が述べたことを以下のようにまとめている。

さっきのhaikuで私が提出した疑問または反論は、
1.どうして「いま、ヘイト規制を日本に導入すれば、最初に摘発されるのは、まず間違いなく日の丸焼却」となるのか?きちんと論理だてて説明してほしい。現実として「日の丸焼却」なんかほとんど行われていないのでは。
2.ブコメに対して(1)私独自の見解ではなくファロンの書いたことを要約しただけ。
3.ブコメに対して(2)当然の理を述べているまで。そこからtari-Gさんのブコメのような論理が出てくるのはなぜか?
4.tari-Gさんがつねづね言っている「人権論の基礎の基礎」というのはどんなものなのか。「教科書読め」じゃなくて。
という4点になると思います。

http://h.hatena.ne.jp/quagma/9234082553158545707

そして、これらの各「疑問または反論」に対するtari-G氏の応答と思われる言葉を摘示しつつ、それらに再応答している。ただし「1」についてのみ、「長くなるので後回し」とした。そのまま、今まで応答をサボってきた。これが「宿題」である。
正直に言えば、この点に今応答するのはさまざまな理由によりおっくうなのだが、放置するのもそれはそれで気がかりであり、今回、とりあえずの簡単な応答をこころみる。

上の「1」の質問について、tari-G氏は直接私へのReplyを残していない。しかし、別の方へのReplyとして、このような疑問に対する答えとなると思われることを書いている*1
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9258658834176680224
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9259274805221033309
以下、これに応答する形をとる。
 
これらの論においてtari-G氏が強調するのは、ヘイトスピーチ規制により生じる弊害、特に「そのような規制が日本でなされた場合、恐らく実際の規制の対象となるのは、排外主義的表現などよりも、マイノリティなどからの抗議的表現であり、ヘイトスピーチとして摘発され、萎縮させられるだろう」という危惧である。ヨーロッパで実際にそのような運用がなされてしまっている事実に言及しつつ、「まして日本では」と論じている。
ここでのtari-G氏の論の進め方にはかなり飛躍がある。まず、それぞれの規制の具体的な規定、制度や運用のあり方、また各事例のくわしい事実などを見ずに、フランスやロシアでそのような事例があったという断片的な情報のみから、ただちに「ヘイトスピーチ規制」の「本質」を論じるのは、やはり粗雑だと言わざるを得ない。同様に、具体的な規制のありようを論じることなく「日本の警察が積極的に取り締まるのは、北朝鮮旗焼毀ではなく日の丸焼毀となるだろうということは、かなり明瞭」とか「実際には、反罪特会[ママ]や反排外主義的言論や、反政府や反権力的政治的言論も、当然射程に入ってくる」などと述べるのはナンセンスである。
したがって、「どうして『いま、ヘイト規制を日本に導入すれば、最初に摘発されるのは、まず間違いなく日の丸焼却』となるのか?」という上記「1」の疑問については、tari-G氏は「きちんと論理だてて説明」できていない。そもそも「いま、ヘイト規制を日本に導入すれば、最初に摘発されるのは、まず間違いなく日の丸焼却」という発言が非論理的な決め付けなのだから、当然といえば当然である。
 
ただ、このやり取りの文脈を離れた一般論として、ヘイトスピーチ規制に危惧を抱くことは理解できる。一般的に言って法執行権力を過信すべきでないのはもちろん近代立憲主義の前提だが、実際に日本の捜査機関がかなりひどい(他国と比べてどうなのかはよく知らないが)のは周知の事実である。tari-G氏が「国旗国歌法」を例に挙げて「今の日本の人権状況」の貧困さを述べているのもまあそのとおりだと思う。そして何よりも、現在の日本社会は人権について異様なほど冷淡・無関心・無知である。つまり駄目なのは公権力に限った話ではない。このような状況においては表現規制に慎重にならざるを得ないというのは、(繰り返すが)一般論としては常識的な見解だと思われる。
 
しかし、一方で、ヘイトスピーチがこの社会に存在し、それが害悪であり、その害悪の程度がはなはだしい*2という事実も否定できない。すなわち、立法事実は存在する。
また、tari-G氏が強調する公権力による濫用、ひいては萎縮効果の生じる危険性という問題については、ある程度は、規制の範囲を明確に定め、規制の対象をごく悪質なものに限定することにより解消可能である。一例として、内野正幸教授のヘイトスピーチ規制条項案*3を挙げておく。

(第1項)日本国内に在住している、身分的出身、人種又は民族によって識別される少数者集団をことさら侮辱する意図をもって、その集団を侮辱した者は……の刑に処す。
(第2項)前項の少数者集団に属する個人を、その集団への帰属のゆえに公然と侮辱した者についても、同じとする。
(第3項)前2項に言う侮辱とは、少数者集団もしくはそれに属する個人に対する殺傷、追放または排除の主張を通じて行う侮辱を含むものとする。
(第4項)本条の罪は、少数者集団に属する個人またはそれによって構成される団体による告訴をまってこれを論ず。

このような規定であれば、権力による恣意的な適用の危険性は相当に減ずる。少なくとも「日の丸焼毀」や相当なやり方でなされる「マイノリティなどからの抗議的表現」を規制の対象とすることはかなり困難だろう*4
内野教授は、上記立法案につき注釈として以下のように述べている*5

差別表現禁止立法は、それによって自由な言論活動が妨げられないように、また、悪質な差別的表現だけが処罰の対象となるように、十分工夫される必要があろう。それは、犯罪となる行為の範囲を厳しく限定してはじめて合憲になる、と解すべきである。(略)
 このような種類の立法にあっては、その適用対象となるのは、きわめて悪質な落書きなど偏執的差別主義者の表現活動だけである、といえよう。

なお、規制のあり方として、刑事立法のみがありうるのではないことを、ひとこと言い添えておく。
  
また、当然ながら、法規制のみがヘイトスピーチへの対応としてありうるわけではない。「表現の自由」を中心にすえて問題を語ろうとすると、どうしても「規制の是非」に焦点が合わせられてしまいがちであるが、それ以外にもすべきことはいくらでもあるはずだ。例えば、ヘイトスピーチに逐一反対の声を上げていくこと、マイノリティの声に耳を傾けること、など。いわゆる「対抗言論」である。tari-G氏は、あくまでも「思想の自由市場」のフィールドにおいて、これらの手段を用いてヘイトスピーチの害悪に対抗していくべき、という考えなのだと思われる。問題は、ヘイトスピーチの害悪への対処としてこれらの「対抗言論」で足りるのか、である。
 
ヘイトスピーチ規制をめぐる問題はもちろんこれに尽きるものではないが、とりあえずこれをもって「宿題」の答えとしたい。

*1:現実として「日の丸焼却」なんかほとんど行われていないのでは、という疑問に対しては、「象徴的例示としてあげています」(http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9236563049360019184)という応答があった。

*2:その害悪の具体的な内容、そのはなはだしさの程度、それらの評価、など、難しい点はある。というか、ここ、さらりと流して書いてしまっているが、この点がこの問題についての大きな論点のひとつであろう。

*3:内野『差別的表現』有斐閣(1990)168ページ

*4:逆に、このように規定してしまうと規制できる場面が著しく限られてしまう、との指摘もありうる。ただ、例えば在特会の一部行為などはこの規定の構成要件に該当するだろう。また、仮に実際に適用されることがほとんどなかったとしても、このような法が存在することの象徴的意味(法が差別的言論の違法性を社会に宣言することの意味)は小さくないだろう。

*5:前掲書171ページ