聖テレサ、ジョージ・エリオット、佐々木中

つい最近思い立って、本棚に挿しっぱなしだったジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』(講談社文芸文庫)を手に取った。文庫本で四分冊ぶんの長大な小説であり、買ったのはもう十年以上前になると思うが、最初の50ページほど読んで投げ出したまま、ずっと読んでいなかった。思い立って手に取ったのは、「序曲」と題された冒頭の文章が非常に印象的だったのを思い出したからだ。
「序曲」はやはり感動的な文章だったが、今回ちょっと驚いた(というほどでもないが)のは、この文章に「聖テレサ*1が登場していたからだ。この人物は、つい一ヶ月ほど前に読んだ別の本でも言及されていた。
 
別の本とは、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を−<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』である。matsuiismさんのブログエントリで紹介されていたのを見て、あまりに面白そうなので図書館に走って借りて読んだ。予期していた以上に強烈で、どこか胡散臭く、しかし間違いなく魅力的な本だった。「テクストを読み、書く(書き換える)ことが革命の本体である」というのがこの本の論旨なのだけれど、一見衝撃的ではあるが、法学を少しかじった者からすれば、それほど理解しにくい話ではない。そういえば宮沢俊義の「八月革命説」なんてのがあったな、と思い出したりもした。
この本にはいろいろと印象的なエピソードが引かれていて*2、そのうちの一つとして、スペインの神秘家「聖テレジア」の話があった。いうまでもなく『ミドルマーチ』の「序曲」に出てくる「聖テレサ」と同一人物である。この本は図書館に返してしまって今手元にないので、その部分は引用できないが、このような人がいたのか、この人についてもっと知りたい、と思った。しかしそのことについてはすぐ忘れてしまっていた。
 
そこへ、『ミドルマーチ』の「序曲」で不意打ち的に再会(正確には再々会)したので驚いた。これはちょっとした神秘体験ではある。「聖テレサ」または「聖テレジア」のことは覚えておくことにした。
それはともかく、『ミドルマーチ』の「序曲」はとても美しい文章だと思うので、ここに丸々引用する。
なお、『ミドルマーチ』は1871年から翌年にかけてイングランドで出版されている。また、ジョージ・エリオットは女性である。
 
−−−−−−−−−−(以下引用)−−−−−−−−−−
 
 人類の歴史に、また、人間という不可思議な善悪の混合物が移りゆく時代のさまざまな試みにあって行う行動に、深い関心を寄せるとき、聖テレサの生涯にしばしなりとも気をとめぬ人があろうか。あの可憐な少女が、とある朝、いたいけな弟と手をつないで、ムーア人の国に殉教を求めに出たことを思うとき、いじらしさのあまり、ほほえまぬ者があろうか。つぶらな目を見張り、頼りなげなおももちで、アヴィラの石ころ道をあぶない足どりでたち去ってゆくさまは、二頭の小鹿にも似ている、が、彼らも人の子、その幼い胸は、早くも、国家的なある理想にこたえて脈うっていたのである。しかしついに、家庭という現実は、伯父なる姿をとって彼らに近づき、彼らをこの偉大なる決意から引き戻した。この子供らしい巡礼行は、いかにも彼女らしい出発であった。生来、理想にあこがれる熱情的なテレサが求めてやまなかったのは、叙事詩的な生涯であった。何巻にもおよぶ騎士道の物語や、社交場裡のはなやかなおとめの勝利など、彼女にはなんの魅力もなかった。彼女の炎はそのようなたあいのない燃料を忽ちのうちに燃やしつくした。そして内から油を注がれ、空高く燃えあがって、限りない満足を追い求めた。それは倦み疲れることを許さない理想であり、そこでは、自己への絶望と、自己を越えた生活の恍惚感とが、和解せしめられるのであった。テレサの探しあてた叙事詩は、教団の改革にあった。
 三百年の昔、スペインに生きていたこの婦人は、たしかにかかる種類の婦人の最後の者ではなかった。今日までにあまたのテレサは生まれてきたが、彼女たちは、あいにく、名声天下にとどろく英雄的行動の連続である叙事詩的生活の機会に恵まれなかった。ある高貴な精神を持ちながら、それを発揮する機会が与えられなかったために生じた、まちがいだらけの生活でしかなかったのかもしれない。彼女たちの失敗は悲劇的であったとしても、それを歌ってくれる立派な詩人も見あたらず、彼女たちが死んで忘却の淵に沈んでも、泣いてくれる人もなかった。八幡知らずの迷路のなかに、かすかな灯火をたよりにして、彼女たちはその思想と行動とを立派に一致させようとつとめた。しかしその努力も、結局、俗人の目には、混沌として形をなさぬ不徹底なものとしか映らなかった。というのも、これら後世に生まれたテレサたちには、その熱心な求道心に知識の役割を果たしてくれる、首尾一貫した社会的信念や社会的秩序という援助が欠けていたからである。彼女たちの熱情は漠然とした理想と、女性なら誰でもが持つあこがれの間をさまよい、前者は非常識として悪しざまに言われ、後者は堕落として非難された。
 彼女たちがこのように、まちがいだらけの、へまな生き方をするのは、造物主が不都合にも、女性の本性を、よければよい、悪ければわるい、とはっきりきめて形づくらなかったことに起因する、と見るむきもある。もし女性の無能の程度を、たとえば三以上の数は数えることができない、というように精確に限定することができるならば、婦人の社会的運命は、科学的確実性をもってとり扱えるかもしれない。ところが現実には、女性の本性は相変らずあいまいである。しかもその種類にいたっては、婦人の髪かたちや、彼女たちの好む散文や韻文の恋物語の一様さとはうって変わって、多岐をきわめている。ここかしこの古池には、白鳥の雛があひるの雛にまじって、居心地わるそうに育っているが、自分と同じ水かきをもった仲間とつれだって、生命の流れのなかを泳ぐ、というわけにはいかないのである。ここかしこに聖テレサは生まれるが、何もつくり出せずに終ってしまう。到達しがたい善を求める慈愛にみちた胸の鼓動も、むせび泣きも、長く歴史に残るほどの行為に集中することもなく、もろもろの障害にあって、力つき、ふるえながら、消え失せてしまうのである。

*1:訳注は「スペインの神秘家で、修道院の改革者として名高い。一五一五−八二。一六二二年聖者の列に加えられた」と説明している。

*2:中でもムハンマドのエピソードは抜群に面白かった