前回の記事について

日の丸と燃える十字架 - 小熊座

「いわゆるふつうの人たちが無邪気に日の丸にコミットするカルトな日本社会…」というようなことを書こうとして

と、「無邪気に国家に同一化すること」に対し批判的なことを書いておいて、その直後で

それが戦後の日本経済の大躍進の欠かせない前提となったという見方もあろうし、そうした面があることは否定しきれないとも思うが、やはり私は、このことが現在の日本に多くの禍根を残したと思う。

私たちはいまだに明治を超えられていない。もちろん先験的に「超えなければならない」ということはできない。しかし、私たちが戦後ずっとそうしてきたように、このような体制をあいまいに許すのは、違うだろう。まずは、彼らが実際に何をやったのか、直視しなければ。

なんて書いている。微妙に「私(たち)=国家」という立場で語ってしまっているような。それだけでなく、文章全体が端的に言って寒いというか上滑りしている感があるというか…的確に言葉にできないが、なんだかもやもやする。その前の記事で削除したことを別エントリーを立てて書き直してみたものだったのだけど、やはり書かないほうがよかったのかもしれない。

日の丸と燃える十字架

昨日アップしたエントリーブコメで、国旗に言及する方がいた。
私も日本で十字架焼却に類比すべきものを挙げるとしたら日章旗(日の丸)しかない、と考えており、下書きの段階では「ナチの*1十字」に言及した後でその点にも触れようと考えていた。
ところが、続けて「いわゆるふつうの人たちが無邪気に日の丸にコミットするカルトな日本社会…」というようなことを書こうとして、「いやしかしカジュアルに国旗が呼び出されることは他の国でも珍しくないのでは?」「無邪気な日の丸へのコミットという一事をもって日本社会が他国の社会と比べてカルト的、というのはやっぱり安易だろう」「ところで他国の国旗と比べて日の丸は特殊だといえる側面を持っているのだろうか?」「国旗の下にさんざんあくどいことをやったのは日本に限らないわけで…」「いやいや、悪しき一般化いくない!!」などと思考が迷走して収拾がつかなくなり、文章もダラダラと冗長に肥大化した。そこで、この点について書いた部分は削除してアップしたのだった。
しかし最近目立つようになった排外主義的な団体が、排外主義的・人種差別主義的主張を掲げつつ日章旗を押し立てるのを見ていると、まさに日の丸を「憎悪の象徴」として用いてると言わざるを得ない*2
 
そもそも、日章旗を国家を象徴する旗として採用したのは明治に成立した大日本帝国である。
ちょっと雑な書き方になってしまうが、今ある「国家としての日本」の大枠を決めたのはこの大日本帝国=明治体制だといっていいだろう。明治体制は、内*3に向かっては天皇制・国家神道廃藩置県・法制度・官僚制・軍制・教育制度・土地制度などを通じて統合を、外に向かっては琉球・台湾・朝鮮・「満州」・「南方」と拡張的な植民地化を、暴力的に押し付けた*4。このような体制が、統合と拡張のシンボルとして、つまりその道具として「日の丸」を選び、実際にそのようなものとして利用しつくしたのである。また、「日の丸」は、このような大日本帝国体制の扇の要としての天皇制と、分かちがたく結びついたものでもある。
第二次大戦における敗戦を経て、国家は「日本国」と名を替え、大日本帝国を支えたいくつかの制度は解体させられ、多くの植民地は放棄させられた。とはいえ、「象徴」としての天皇制が温存されたことに「象徴」的なように、その解体はほとんどが中途半端なものに終わった。それが戦後の日本経済の大躍進の欠かせない前提となったという見方もあろうし、そうした面があることは否定しきれないとも思うが、やはり私は、このことが現在の日本に多くの禍根を残したと思う。
私たちはいまだに明治を超えられていない。もちろん先験的に「超えなければならない」ということはできない。しかし、私たちが戦後ずっとそうしてきたように、このような体制をあいまいに許すのは、違うだろう。まずは、彼らが実際に何をやったのか、直視しなければ。だが、じっさいのところ、現在の日本社会は「明治をあいまいに許したい」という欲望にまみれている。見てないからよく知らんが、竜馬伝なんか見て喜んでる場合じゃない。私は「基本あいつら*5敵だろ」と思ってるし、こうした雰囲気の充満する現在の日本社会はとてもキモイと思っている。
明治から継続して「国旗」であり続けた日章旗=日の丸も、このように認識される現在の日本の「象徴」である、と私は考える。こうした見方からすると、単純に日の丸も燃える十字架と同じく「憎悪の象徴」である、というのは少し違うかもしれない。もしかすると、「憎悪の象徴」よりもっと悪いものというべきなのかも。
ただ、日の丸という「象徴」により象徴されるものは、憎悪をもその内容として含んでいる、とは思う。その意味でなら、日の丸もまた「憎悪の象徴」だといっていいだろう。
 
「いやすべての国旗・すべてのシンボルは不可避的に負の象徴たらざるをえないのであって…」という声もするようである(内なるコンフォーミストの声)。しかし一般論に逃げてはいけない。私たちの目の前にあるのは、燃える十字架ではなく、日の丸なのだから。
 
というわけで、私は日の丸は嫌いである。であるので、当然、「日の丸・君が代」は「慣習法として確立していた」から「式典への出席者に対して、一律の行為を求めること自体に合理性が」あるとして、強制通達は教職員に「重大な損害を生ずるおそれがあり、かつその損害を避けるために他に適当な方法がないとはいえない」と述べたという1月28日付の東京高裁判決は大いに気に食わない。判決文そのものは読んでいないが、糞食らえ、といっておく。
 
[追記]
ブコメでみつどん氏にご教示いただいた。こちらに「日の丸のこれ以上ない正しい使用法を見た」との常野氏の言葉が載っている。
リンチ上等と反日上等 - 地を這う難破船

*1:2月14日に誤字に気がついたので修正した

*2:常野雄次郎氏などは、在特会メンバーに日章旗の旗ざおで殴られたとき、いみじくも「日の丸の正しい用法」と言っていた。と思って常野氏のブログを「日の丸」で検索して見たがそのような発言は見つからなかった。http://d.hatena.ne.jp/toled/searchdiary?word=%C6%FC%A4%CE%B4%DD しかし「日の丸は…わるいヘイトを ぐたいかしたもの」(http://d.hatena.ne.jp/toled/20100104/p1)と言っているのはまさに「憎悪の象徴」とほぼ同義といっていいだろう。なお、追記も参照のこと。

*3:とはいえ、少なくとも発足当初の明治体制が薩長を中心とした寡頭制的な軍閥政権としての性格を持っていたことを思えば、たとえば戊辰戦争で制圧された奥羽越の諸藩を「内」と言い切ることにはためらいを感じる。まして、琉球‐沖縄やアイヌモシリ‐北海道においてをや。

*4:というか、もちろんこれらの制度は植民地化の過程において大活躍したし、前の註で述べたように「国内」の統合じたい、一種の植民地化として観察されうるものであったろう。

*5:明治の元勲とか

十字架焼却の歴史

合衆国におけるヘイトスピーチ規制の文脈において重要な連邦最高裁判決であるVirginia v. Black 538 U.S. 343 (2003)を読んでいるのだが、そこで素描されている「十字架焼却(cross burning)」なる行為の歴史が非常に興味深い。
Virginia v. Black判決(以下、ブラック判決)では、十字架を燃やす行為を犯罪として処罰するヴァージニア州法の合憲性が問題となっている。実は先例として、ほぼ同じような内容の市条例を、合衆国憲法第1修正*1に反し違憲であると判断した判例(R.A.V. v. St.Paul 505 U.s. 377 (1992)、以下、RAV判決)がある。ブラック判決の法廷意見(O'Connor裁判官)は、この判例を変更していないのだが、にもかかわらずRAV判決とは反対に十字架焼却を禁止するヴァージニア州法を合憲と判断した*2。ブラック判決はその判断の前提として、十字架焼却という行為の意味を明らかにする歴史的説明に一章を割いている*3。先に述べたようにこの部分が非常に興味深く、示唆に富んでいるとも思われるので、この部分の全文を訳出してみた(「第二章」の部分がそれである)。
 
連邦最高裁判決 ヴァージニア州対ブラック、その他 538 U.S. 343 (2003) - 小熊座
 
このさほど長いわけではない歴史叙述は、本判決が判断を下すために必要な限りでまとめられたものだと思われる。したがって、これだけを読んで何かがわかったなどと考えるべきではないのだろう。それでも、私はこれを読んで、いくつかのことを強く印象付けられずにいられなかった。これらのことは、単純に私が無知であったということを意味しているに過ぎないのかもしれないが、ここに書いておきたい。
 
第一に、十字架焼却という類まれに強烈で不快な象徴的行為の存在そのものがもたらす衝撃。
この点については、説明不要だろう。
 
第二に、十字架焼却の持つ来歴の奇妙さ。
判決文はウォルター・スコットとディクソンの間の影響関係について明言していないが、おそらくは、14世紀スコットランドに実在した風習―18−19世紀スコットランドのロマンス作家サー・ウォルター・スコットによる詩『湖上の麗人』―20世紀初頭の合衆国の小説家トーマス・ディクソンによる歴史小説『クランズマン』―ほぼ同時代の映画作家D.W.グリフィスによる映画『国民の創生』―その直後に合衆国南部社会でKKKの復活と同時に十字架焼却が現実化、という流れが存在するものと考えられる。そのスパンの長さもさることながら、伝達経路において生じた意味内容のねじれっぷりに一種めまいのようなものを感じずにいられない。
 
第三に、十字架焼却が「憎悪の象徴」として通用するようになったという事実には、これらのフィクション(特にグリフィスの映画)がその根を持っていると思われること(このことは、判決文の記述自体からわかることではないが)。
私はウォルター・スコットもトーマス・ディクソンも読んでいないが、グリフィスの『国民の創生』は見た*4。この映画において、燃える十字架は二度画面に登場する。いずれにおいても、その意味するところは単純ではないが、少なくとも憎悪と攻撃の色彩を帯びていることは間違いない。そもそもよく知られているように、この映画そのものが人種差別的な内容を持っている。*5。判決文中で言及されている「最初の記録された十字架焼却」が、すでに色濃く憎悪的表現としての性質を持っていたのは、このことと無関係ではないだろう*6
 
第四に、1915年における十字架焼却の発端において、レオ・フランクのリンチによる殺害*7という衝撃的な事件が絡んでいるという事実。
判決文が書いているように、合衆国における記録された最初の十字架焼却は、レオ・フランクのリンチによる殺害を「祝う」ものだった。この禍々しくも呪わしい事実に戦慄する。
 
第五に、十字架焼却という象徴的表現の持つ二面性(あいまいさ)が強調されていること。
十字架焼却は「憎悪の象徴」として記述されるが、それが内部に向けられたときはイデオロギーと団結の表象となり、外部に向けられたときは激烈な脅迫そのものとなる。この二面性は、当然この判決(第一事件‐無罪とした原判決を破棄差戻し、第二事件‐無罪とした原判決を維持)の結論に影響しているだろうと思われる。また、例えばナチの*8十字といったものを想起すれば、このような象徴の持つ二面性は普遍的なものだといえるかもしれない。

*1:言論の自由を保障する

*2:ただし、相対多数意見は「一応の証拠」条項の部分についてのみ違憲とした

*3:O'conner判事が書いた法廷意見(これに四人の判事が同調)は、事案の概要を説明する第一章、十字架焼却の歴史を説明する第二章、ヴァージニア州法18.2-423の合憲性を具体的に判断する第三章(前段、合憲)および第四章(後段、違憲)、結論を短く述べる第五章から構成される。ただし、第四章・第五章に関しては、第三章まで同意した判事のうち一人が同調しなかったので、法廷の過半数を形成できず、相対多数意見となった。

*4:You Tubeで全編を見ることができる。http://www.youtube.com/watch?v=FbYXF5HmEds

*5:例えば、先の註でリンクしたYou Tubeのウェブページには、アップしたアカウントによるコメントが書き込まれているが、そこには"Controversially racist D.W. Griffith film""The families' servants epitomize the worst racial stereotypes""the slaves and abolitionists are blamed for it"といった表現が躍っている。そしてこれらの言葉は基本的に間違っていない。

*6:グリフィスは映画史が持った最大の巨匠の一人であり、現在に至る産業としての映画は彼の存在抜きには考えられない。グリフィス以後のすべての映画は、彼の影響下にあるといっても過言ではない。『国民の創生』はそのグリフィスの出世作であり、映画史上最初の超大作である。そのような作品が同時に人種差別主義に濃く染め上げられているという否定しがたい事実は、よく知られているがやはり大変なスキャンダルであり、映画産業の原罪といっていいと思う。

*7:レオ・フランクはユダヤ人の工場主だったが、アトランタの彼の工場で起きた少女殺害事件の被疑者とされた。起訴されたレオ・フランクは陪審により有罪とされ、死刑判決を下されたが、後に恩赦され終身刑となった。このことは反ユダヤ主義の蔓延する南部社会にすさまじい憤激を巻き起こした。レオ・フランクは収監されていた刑務所から拉致され、リンチを受け殺害された。しかも、後に明らかになったところによれば、これは全くの冤罪だったのだという。

*8:2月14日に誤字に気がついたので修正した

こうまで見せつけられると

Togetter - 「チュニジア政権崩壊報道をめぐる烏賀陽弘道氏(@hirougaya)と常岡浩介氏(@shamilsh)との応酬」
Togetter - 「烏賀陽弘道さん(@hirougaya)の語る「匿名の卑怯者」」
 
発言における事実認識の間違いを指摘されて

間違ってます?じゃあ、ネットで淘汰されればよい

紙メディアの常識をネットに持ち来むなんて

間違っている?当たり前でしょう。私は思考のメモ代わりなんだから。それがどうした?

これは料金をとっている商品じゃない

というのは、いいわけとしても斬新すぎる(私が知らないだけでよくあるのだろうか?)が、自らのプロのジャーナリストとしての信頼性を著しく損なう言動だと思う。
 
これまで留保してきた氏のジャーナリストとしての資質を判断する決定的な材料だと言わざるを得ない。
 

言論の自由には、相手を不快にする権利も含まれる。(1964年のアメリカ連邦最高裁裁判所判決)

http://twitter.com/hirougaya/status/2980882499510272

というのも、結局いい加減なことを放言していただけじゃないのかという疑いが強まったな。
 
参照:
「相手を不快にする権利」は保護されるべきか、および烏賀陽弘道氏に罵倒されたこと - 小熊座
「相手を不快にする権利」について調べ、途中経過 - 小熊座
「相手を不快にする権利」、一応の結論 - 小熊座
 

ヘイトスピーチ規制がマイノリティの抗議的表現の摘発を招くのは必然か(tari-Gさんへのお返事、part2)

以前こちらにアップしたはてなhaiku」でのtari-G氏とのやり取りは、以降以下のように展開した。

http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9258658834641833355
http://h.hatena.ne.jp/quagma/9234082553158545707
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9234100145665692301
http://h.hatena.ne.jp/quagma/9234100145911770156
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9236563052140979102
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9259274564384171654
http://h.hatena.ne.jp/quagma/9234082574460918619
私は先日、正月のtari-G氏の振舞いを批判するエントリーを書いたが、上記リンク先におけるやり取りはそれ以前のものである。
見ていただければわかるように、私には一点「宿題」が残っている。
  
上から二番目のhaikuで、私は先日のエントリーで私が述べたことを以下のようにまとめている。

さっきのhaikuで私が提出した疑問または反論は、
1.どうして「いま、ヘイト規制を日本に導入すれば、最初に摘発されるのは、まず間違いなく日の丸焼却」となるのか?きちんと論理だてて説明してほしい。現実として「日の丸焼却」なんかほとんど行われていないのでは。
2.ブコメに対して(1)私独自の見解ではなくファロンの書いたことを要約しただけ。
3.ブコメに対して(2)当然の理を述べているまで。そこからtari-Gさんのブコメのような論理が出てくるのはなぜか?
4.tari-Gさんがつねづね言っている「人権論の基礎の基礎」というのはどんなものなのか。「教科書読め」じゃなくて。
という4点になると思います。

http://h.hatena.ne.jp/quagma/9234082553158545707

そして、これらの各「疑問または反論」に対するtari-G氏の応答と思われる言葉を摘示しつつ、それらに再応答している。ただし「1」についてのみ、「長くなるので後回し」とした。そのまま、今まで応答をサボってきた。これが「宿題」である。
正直に言えば、この点に今応答するのはさまざまな理由によりおっくうなのだが、放置するのもそれはそれで気がかりであり、今回、とりあえずの簡単な応答をこころみる。

上の「1」の質問について、tari-G氏は直接私へのReplyを残していない。しかし、別の方へのReplyとして、このような疑問に対する答えとなると思われることを書いている*1
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9258658834176680224
http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9259274805221033309
以下、これに応答する形をとる。
 
これらの論においてtari-G氏が強調するのは、ヘイトスピーチ規制により生じる弊害、特に「そのような規制が日本でなされた場合、恐らく実際の規制の対象となるのは、排外主義的表現などよりも、マイノリティなどからの抗議的表現であり、ヘイトスピーチとして摘発され、萎縮させられるだろう」という危惧である。ヨーロッパで実際にそのような運用がなされてしまっている事実に言及しつつ、「まして日本では」と論じている。
ここでのtari-G氏の論の進め方にはかなり飛躍がある。まず、それぞれの規制の具体的な規定、制度や運用のあり方、また各事例のくわしい事実などを見ずに、フランスやロシアでそのような事例があったという断片的な情報のみから、ただちに「ヘイトスピーチ規制」の「本質」を論じるのは、やはり粗雑だと言わざるを得ない。同様に、具体的な規制のありようを論じることなく「日本の警察が積極的に取り締まるのは、北朝鮮旗焼毀ではなく日の丸焼毀となるだろうということは、かなり明瞭」とか「実際には、反罪特会[ママ]や反排外主義的言論や、反政府や反権力的政治的言論も、当然射程に入ってくる」などと述べるのはナンセンスである。
したがって、「どうして『いま、ヘイト規制を日本に導入すれば、最初に摘発されるのは、まず間違いなく日の丸焼却』となるのか?」という上記「1」の疑問については、tari-G氏は「きちんと論理だてて説明」できていない。そもそも「いま、ヘイト規制を日本に導入すれば、最初に摘発されるのは、まず間違いなく日の丸焼却」という発言が非論理的な決め付けなのだから、当然といえば当然である。
 
ただ、このやり取りの文脈を離れた一般論として、ヘイトスピーチ規制に危惧を抱くことは理解できる。一般的に言って法執行権力を過信すべきでないのはもちろん近代立憲主義の前提だが、実際に日本の捜査機関がかなりひどい(他国と比べてどうなのかはよく知らないが)のは周知の事実である。tari-G氏が「国旗国歌法」を例に挙げて「今の日本の人権状況」の貧困さを述べているのもまあそのとおりだと思う。そして何よりも、現在の日本社会は人権について異様なほど冷淡・無関心・無知である。つまり駄目なのは公権力に限った話ではない。このような状況においては表現規制に慎重にならざるを得ないというのは、(繰り返すが)一般論としては常識的な見解だと思われる。
 
しかし、一方で、ヘイトスピーチがこの社会に存在し、それが害悪であり、その害悪の程度がはなはだしい*2という事実も否定できない。すなわち、立法事実は存在する。
また、tari-G氏が強調する公権力による濫用、ひいては萎縮効果の生じる危険性という問題については、ある程度は、規制の範囲を明確に定め、規制の対象をごく悪質なものに限定することにより解消可能である。一例として、内野正幸教授のヘイトスピーチ規制条項案*3を挙げておく。

(第1項)日本国内に在住している、身分的出身、人種又は民族によって識別される少数者集団をことさら侮辱する意図をもって、その集団を侮辱した者は……の刑に処す。
(第2項)前項の少数者集団に属する個人を、その集団への帰属のゆえに公然と侮辱した者についても、同じとする。
(第3項)前2項に言う侮辱とは、少数者集団もしくはそれに属する個人に対する殺傷、追放または排除の主張を通じて行う侮辱を含むものとする。
(第4項)本条の罪は、少数者集団に属する個人またはそれによって構成される団体による告訴をまってこれを論ず。

このような規定であれば、権力による恣意的な適用の危険性は相当に減ずる。少なくとも「日の丸焼毀」や相当なやり方でなされる「マイノリティなどからの抗議的表現」を規制の対象とすることはかなり困難だろう*4
内野教授は、上記立法案につき注釈として以下のように述べている*5

差別表現禁止立法は、それによって自由な言論活動が妨げられないように、また、悪質な差別的表現だけが処罰の対象となるように、十分工夫される必要があろう。それは、犯罪となる行為の範囲を厳しく限定してはじめて合憲になる、と解すべきである。(略)
 このような種類の立法にあっては、その適用対象となるのは、きわめて悪質な落書きなど偏執的差別主義者の表現活動だけである、といえよう。

なお、規制のあり方として、刑事立法のみがありうるのではないことを、ひとこと言い添えておく。
  
また、当然ながら、法規制のみがヘイトスピーチへの対応としてありうるわけではない。「表現の自由」を中心にすえて問題を語ろうとすると、どうしても「規制の是非」に焦点が合わせられてしまいがちであるが、それ以外にもすべきことはいくらでもあるはずだ。例えば、ヘイトスピーチに逐一反対の声を上げていくこと、マイノリティの声に耳を傾けること、など。いわゆる「対抗言論」である。tari-G氏は、あくまでも「思想の自由市場」のフィールドにおいて、これらの手段を用いてヘイトスピーチの害悪に対抗していくべき、という考えなのだと思われる。問題は、ヘイトスピーチの害悪への対処としてこれらの「対抗言論」で足りるのか、である。
 
ヘイトスピーチ規制をめぐる問題はもちろんこれに尽きるものではないが、とりあえずこれをもって「宿題」の答えとしたい。

*1:現実として「日の丸焼却」なんかほとんど行われていないのでは、という疑問に対しては、「象徴的例示としてあげています」(http://h.hatena.ne.jp/tari-G/9236563049360019184)という応答があった。

*2:その害悪の具体的な内容、そのはなはだしさの程度、それらの評価、など、難しい点はある。というか、ここ、さらりと流して書いてしまっているが、この点がこの問題についての大きな論点のひとつであろう。

*3:内野『差別的表現』有斐閣(1990)168ページ

*4:逆に、このように規定してしまうと規制できる場面が著しく限られてしまう、との指摘もありうる。ただ、例えば在特会の一部行為などはこの規定の構成要件に該当するだろう。また、仮に実際に適用されることがほとんどなかったとしても、このような法が存在することの象徴的意味(法が差別的言論の違法性を社会に宣言することの意味)は小さくないだろう。

*5:前掲書171ページ

聖テレサ、ジョージ・エリオット、佐々木中

つい最近思い立って、本棚に挿しっぱなしだったジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』(講談社文芸文庫)を手に取った。文庫本で四分冊ぶんの長大な小説であり、買ったのはもう十年以上前になると思うが、最初の50ページほど読んで投げ出したまま、ずっと読んでいなかった。思い立って手に取ったのは、「序曲」と題された冒頭の文章が非常に印象的だったのを思い出したからだ。
「序曲」はやはり感動的な文章だったが、今回ちょっと驚いた(というほどでもないが)のは、この文章に「聖テレサ*1が登場していたからだ。この人物は、つい一ヶ月ほど前に読んだ別の本でも言及されていた。
 
別の本とは、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を−<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』である。matsuiismさんのブログエントリで紹介されていたのを見て、あまりに面白そうなので図書館に走って借りて読んだ。予期していた以上に強烈で、どこか胡散臭く、しかし間違いなく魅力的な本だった。「テクストを読み、書く(書き換える)ことが革命の本体である」というのがこの本の論旨なのだけれど、一見衝撃的ではあるが、法学を少しかじった者からすれば、それほど理解しにくい話ではない。そういえば宮沢俊義の「八月革命説」なんてのがあったな、と思い出したりもした。
この本にはいろいろと印象的なエピソードが引かれていて*2、そのうちの一つとして、スペインの神秘家「聖テレジア」の話があった。いうまでもなく『ミドルマーチ』の「序曲」に出てくる「聖テレサ」と同一人物である。この本は図書館に返してしまって今手元にないので、その部分は引用できないが、このような人がいたのか、この人についてもっと知りたい、と思った。しかしそのことについてはすぐ忘れてしまっていた。
 
そこへ、『ミドルマーチ』の「序曲」で不意打ち的に再会(正確には再々会)したので驚いた。これはちょっとした神秘体験ではある。「聖テレサ」または「聖テレジア」のことは覚えておくことにした。
それはともかく、『ミドルマーチ』の「序曲」はとても美しい文章だと思うので、ここに丸々引用する。
なお、『ミドルマーチ』は1871年から翌年にかけてイングランドで出版されている。また、ジョージ・エリオットは女性である。
 
−−−−−−−−−−(以下引用)−−−−−−−−−−
 
 人類の歴史に、また、人間という不可思議な善悪の混合物が移りゆく時代のさまざまな試みにあって行う行動に、深い関心を寄せるとき、聖テレサの生涯にしばしなりとも気をとめぬ人があろうか。あの可憐な少女が、とある朝、いたいけな弟と手をつないで、ムーア人の国に殉教を求めに出たことを思うとき、いじらしさのあまり、ほほえまぬ者があろうか。つぶらな目を見張り、頼りなげなおももちで、アヴィラの石ころ道をあぶない足どりでたち去ってゆくさまは、二頭の小鹿にも似ている、が、彼らも人の子、その幼い胸は、早くも、国家的なある理想にこたえて脈うっていたのである。しかしついに、家庭という現実は、伯父なる姿をとって彼らに近づき、彼らをこの偉大なる決意から引き戻した。この子供らしい巡礼行は、いかにも彼女らしい出発であった。生来、理想にあこがれる熱情的なテレサが求めてやまなかったのは、叙事詩的な生涯であった。何巻にもおよぶ騎士道の物語や、社交場裡のはなやかなおとめの勝利など、彼女にはなんの魅力もなかった。彼女の炎はそのようなたあいのない燃料を忽ちのうちに燃やしつくした。そして内から油を注がれ、空高く燃えあがって、限りない満足を追い求めた。それは倦み疲れることを許さない理想であり、そこでは、自己への絶望と、自己を越えた生活の恍惚感とが、和解せしめられるのであった。テレサの探しあてた叙事詩は、教団の改革にあった。
 三百年の昔、スペインに生きていたこの婦人は、たしかにかかる種類の婦人の最後の者ではなかった。今日までにあまたのテレサは生まれてきたが、彼女たちは、あいにく、名声天下にとどろく英雄的行動の連続である叙事詩的生活の機会に恵まれなかった。ある高貴な精神を持ちながら、それを発揮する機会が与えられなかったために生じた、まちがいだらけの生活でしかなかったのかもしれない。彼女たちの失敗は悲劇的であったとしても、それを歌ってくれる立派な詩人も見あたらず、彼女たちが死んで忘却の淵に沈んでも、泣いてくれる人もなかった。八幡知らずの迷路のなかに、かすかな灯火をたよりにして、彼女たちはその思想と行動とを立派に一致させようとつとめた。しかしその努力も、結局、俗人の目には、混沌として形をなさぬ不徹底なものとしか映らなかった。というのも、これら後世に生まれたテレサたちには、その熱心な求道心に知識の役割を果たしてくれる、首尾一貫した社会的信念や社会的秩序という援助が欠けていたからである。彼女たちの熱情は漠然とした理想と、女性なら誰でもが持つあこがれの間をさまよい、前者は非常識として悪しざまに言われ、後者は堕落として非難された。
 彼女たちがこのように、まちがいだらけの、へまな生き方をするのは、造物主が不都合にも、女性の本性を、よければよい、悪ければわるい、とはっきりきめて形づくらなかったことに起因する、と見るむきもある。もし女性の無能の程度を、たとえば三以上の数は数えることができない、というように精確に限定することができるならば、婦人の社会的運命は、科学的確実性をもってとり扱えるかもしれない。ところが現実には、女性の本性は相変らずあいまいである。しかもその種類にいたっては、婦人の髪かたちや、彼女たちの好む散文や韻文の恋物語の一様さとはうって変わって、多岐をきわめている。ここかしこの古池には、白鳥の雛があひるの雛にまじって、居心地わるそうに育っているが、自分と同じ水かきをもった仲間とつれだって、生命の流れのなかを泳ぐ、というわけにはいかないのである。ここかしこに聖テレサは生まれるが、何もつくり出せずに終ってしまう。到達しがたい善を求める慈愛にみちた胸の鼓動も、むせび泣きも、長く歴史に残るほどの行為に集中することもなく、もろもろの障害にあって、力つき、ふるえながら、消え失せてしまうのである。

*1:訳注は「スペインの神秘家で、修道院の改革者として名高い。一五一五−八二。一六二二年聖者の列に加えられた」と説明している。

*2:中でもムハンマドのエピソードは抜群に面白かった

それにしても

Apeman(apesnotmonkeys)氏が「キリッ」の意味が分からない、という人に対して「『表現の自由キリッ』でサイト内検索して関連エントリ読んでから出直して。」と言っておられるので、私もやってみたんだけど、私が「ヘイトスピーチ表現の自由」というテーマで考えているようなことって、はてな界(?)の内部に限っても、すでに遅くとも一年ちょっと前にはさんざん論じつくされてるんだなー…と思った。
というか、当時私もそれらの記事を読んでいたはずなのに、ほとんど覚えていないのはどういうことなんだ。
まあ所詮周回遅れということで、かえってマイペースで書けるというのは私にとってはいいことなんだろう。